アフガニスタンボランティア −国境なき医師団助産師の6ヶ月−
波多野 環
<第3章 クリニックでの日々>
(17)大病院とのトラブル
「DBクリニック(私達のサポートしているダステバルチクリニックのこと)は、患者に対する治療について改め、M病院はじめR病院に治療困難な症例を搬送することを改めること。」
という意味不明な文書がMOHから回って来た時、まったく寝耳に水の出来事だったので、はっきり言って驚いた。これは一応MOHからの警告ということだ。実はこれは非常にややこしい出来事だった。
まず、DBクリニックは知ってのとおり本当に基本的な処置を施すところであって、手術施設はないので、手術が必要な患者さんは搬送しないといけない。マタニティに関しても、正常分娩のみを取り扱っているので、異常がおきたときは大きな病院に搬送しないといけない。(吸引もかんし分娩も行っていない。)こちらには十分な設備がないんだから、当然手におえないときには搬送することになっている。実は以前から、病院の方からはたびたびクレームが来ていた。
「DBクリニックは重症例ばかり送ってくる。」という、ものすごくくだらない理由だった。
「重症じゃなきゃ送らないでしょ。」ってスタッフ全員思っていたが、病院側はこのクリニックで、助産師が間違った処置を行って、患者を重症の状態にして、手がつけられなくなって、さじを投げて病院に送ってくると勘違いしていたらしかった。本当にそんな風に思われていたんなら心外だが、実はいろいろと面倒くさいことが隠れていた。カブールには大きな病院はいくつかあるが、産婦人科で手術もできる、重傷例の受け入れができる病院は3つしかない。そのうちひとつは、工事中で実質2つの病院が主に機能していた。スタッフはMOHに雇われたスタッフであるが、問題はMOHがきちんと仕事量に見合った給料を支払っていないと言うことにあった。私は病院に患者さんのフォローアップに行くたびに
「DBにいま求人はないか。」と何度も聞かれた。MSFは他のNGOの支援もあり、助産師たちが受け取っている給料はこの病院の2倍近かったのである。うちのマタニティを開設するとき、ほとんどのスタッフがM病院からやってきたそうだ。どう言う基準で選んだのかわからないが、病院側からすれば、多くの優秀なスタッフを急に引き抜かれたのである。私の前任者との話し合いで、以後M病院からスタッフを雇わないということを約束したようだった。何度かクリニックで雇ってもらえないかとたずねていたスタッフも、私がここからは雇えないということを再三伝えていたので、諦めていたようだった。だが、こうした病院側のスタッフからの不満が、思いがけずこちらにぶつけられてきたのである。クリニックにくる患者の中には、状態が悪いのに、遠くの村からやってきて瀕死の状態で運び込まれてくることも多い。そういう場合、とにかく応急処置をして、状態を安定させてすぐに搬送することになっている。しかし、病院側はこんなことにもいちゃもんをつけてきた。
「なんで、点滴なんてやってるんだ、時間を無駄にしているじゃないか。」って、点滴しなかったら病院の間までに死んじゃうよ。と言う感じでちょっと話しにならないなと言うようなクレームが来ていた。あちらの言い分は
「患者を送るなら、ON TIME で送れ。」と言うものだった。なんだこのON TIMEっていうのは。患者の状態なんて、来たときが手遅れなら、それはもう手遅れなんだとしか言いようがない。タクシーで来た患者を車から下ろして診察なんてせずにそのまま病院に送れといわれても、それじゃあ、ただ患者を追い返しているだけではないか。到底納得のできない、言いがかりのような話で、病院のディレクターと話していても、埒があかない感じだった。あげくは
「マタニティには助産師しかいないのに、ちゃんと異常の判断ができているのか。」
と助産師の裁量にまでいちゃもんをつけてきた。そして「助産師だけでは十分とは言えない。病院から医師を雇わないか。」
と言うのである。結局のところ、MOHも十分な給料を払えずに、職員の不満はたまっている。数人でも言いからMSFが医師を受け入れて給料も払ってくれるなら、願ったりかなったりだ。そういう問題を「クリニックの対応が悪い。」という問題に勝手に摩り替えるために、いかにもDBが悪いクリニックだと言うようなことを言いふらしていたのである。私は到底この申し出を受け入れることはできないと思った。助産師たちの技術、判断力は申し分なかったからだ。(最低限アフガニスタンの全体のレベルから見てと言うことであるが)プロジェクト責任者はこの申し入れを受け入れて、私達は1ヶ月間病院から医師を受け入れることになった。これがもう、散々だった。
契約は一応1ヶ月と言うことだった。シーマ医師は卒後十年以上のベテラン女性医師だ。豪快な笑い方で、見た目穏やかそうなこの人は、実はものすごく傲慢な医者だった。クリニックに来るなり、あれができていないだの、これができていないだのと色々と文句を言っていたが、私はほとんど聞き流していた。口を開けば
「私は経験のある、オンコールの医者なのよ。」といちいち言うので、レイリーもうんざりしていた。
「ドクター、私もバカじゃありませんから、何度もおっしゃっていただかなくても結構ですよ。」
といったレイリーに「イエス!!」とウインクを送ってしまったりした。期待はまったくしていなかったけど、トレーニングをいくつかやってもらったりした。資料等まったく用意する気配もなかったので、私とレレマで準備をしたりしていた。彼女の話すことといったら、まるっきり教科書の暗記文みたいで、本当につまらなかった。こんな人雇ったって意味ないっていうのに。と私は文句を言ったけど「1ヶ月だから。」と説き伏せられた。私達がしっかり働いていることがMOHに伝わりさえすればいいということだった。
ある朝出勤すると、分娩室に微弱陣痛の産婦が一人。夜勤の助産師は
「搬送した方がいいか、ドクターの指示を仰ぎたい。」という。私はシーマ医師に任せることにした。シーマ医師は診察するなり
「これは普通には出てこないわ、ここには吸引はないの。」といった。ここでは吸引分娩ができないということはもともと伝えてあったが、忘れていたようだ。
「だめなら搬送したほうがいいわ。この人は自然には生まれないわ。」
といい分娩室を後にした。夜勤助産師は搬送の準備をしようとした。そこへ、助産師長がやってきて、産婦を診察した。彼女は産婦の膀胱が異様に充満していることを指摘し、導尿を行った。500CC以上も尿が貯留していた。そして、導尿後、産婦にしばらく室内を歩き回るよう指導した。そして産婦は自然に出産したのである。私はこのとき本当にうれしかった。彼女達は助産師としての立場で、医師よりも的確な判断をしたのである。シーマ医師はかなりばつの悪い思いをしたようだ。
このあと彼女は特に仕事に熱意もなく、なんとなく1ヶ月を終えた。終わるときに
「ねえ、クリニックにあるドップラーを私にくれない?うちのプライベートクリニックにほしいのよね。」
と私に聞いてきたときは、びっくりした。おいおい、これはJICAからの寄付だし、クリニックの備品を勝手に人にあげるなんてできっこないよ。すると彼女は
「じゃあ、あなたが日本に帰ったら私にひとつ送ってよ、日本では簡単に手にはいるんでしょう。」
思わず、あんぐりと言う感じだった。あのさ、あなたが本当にいい人で、患者さんのために必死で働いてくれる人なら私も考えますけどね。
「申し訳ないけど、日本からちゃんとアフガニスタンに送れる保障はないから。」
と断った。それでもしつこく「じゃあ、あなたが日本に帰ったら、次にこっちに来るときはひとつ持って来てね。」
もう、いいかげんにしてくれー。こういう人のこと「厚顔無恥」っていうんだよ。苦笑していると、レイリーが
「信じられない、ずうずうしい人。」といって怒っていた。
医者にもいろいろな種類の人がいるけど、お金を稼ぎたいと思っている人は多い。アフガニスタンでも、裕福な家庭の人は高い医療費を払ってプライベートのクリニックにいくことがある。シーマ医師は、
「私は自分のクリニックで働いていれば、病院で働かなくても十分暮らしていけるわよ。一日で20ドルは稼げるわ。」
と言っていた。(一ヶ月の日勤助産師の給料は80ドルから90ドル程度である。)
「一月300ドル払ってくれたら、ここのスタッフを完璧に指導して見せるわ。」
だって、ここではやる気がないわけだと思った。この一連の出来事を通して、私はつくづく自分のクリニックのスタッフが、患者のためにがんばって働いてくれていることを知ることができた。ほんとうに自信を持って
「うちの助産師は優秀ですから。」といえるようになったのだった。
(18)女3人集まれば
普通、恋の話か、エッチな話がはじまる!これはアフガニスタンでもおんなじで、はじめはかなりびっくりしたけど、結構楽しませてもらった(笑) アフガニスタンは、まだ恋愛があんまりオープンじゃないから、それに結婚までセックスは無しって言うことになっているから(一応)未婚者の結婚に対する好奇心って、ほとんど単にセックスに関する好奇心だったりするんだよね。なんか欲求不満になりそうで、よけい不健康な感じするけど。男性だったら余計にそうなんだろうなあ。
そうそう、で私はマタニティにきて、二日目に聞かれた質問は「アフガニスタンの女性のアソコって大きくない?」
って言うものだった(冷汗) オイオイ、なんてこと聞くんだよー、そうだなー、別にそんなに違わないとおもうんですけど(無難)
「ふーん・・・(やや不満)」なんだ、どんな答えを期待しているのだ??ああ、でもあの、陰部の毛が全部無かったのはびっくりした。あれってお産の前にみんな剃るのかな?お産の時みんなすでに剃毛済みだったから気になったんだよね。
「あー、アフガンの女性はみんな剃ってるよ。イスラムの人は、脇の毛もアソコの毛もちゃんと剃るんだよ。」
ええっ、そうなの?「知らないのー?イスラムの人で、そこの毛の処理をしていない人は不潔だから、お祈りもできないんだよ。お祈りの前にはちゃんときれいにするんだから。」
へえ、知らなかった。えー、でもほらすぐに生えてくるジャン、つるつるじゃないとだめなの
「えー、うーん、そんなにつるつるじゃ無くても良いけどね、最低1センチ以下かな。」
なるほどー、でつかぬことを聞くけどさ、男の人もそうなの?「知らないよー、私見たこと無いもん!!男性の裸なんて!(未婚)」
(一同大爆笑)でもさ、男の人も剃らないとだめって言ったら、アソコだけ剃るの?変じゃない?だって、みんな胸毛すごいよ、もじゃもじゃだよ。足もすごいけど、それはいいわけ?
「ぎゃーっははは(大喜び)」「やっぱり男の人は剃らなくて良いのよー。」
「だよねー、私毛深い人が好み!胸毛がもじゃもじゃのほうが好き、たまきは?」
えー・・胸毛もじゃもじゃねえ(苦笑) そう言うのに特に好みは無いんだよなあ。たまたま好きになった人が胸毛濃くっても別に良いし。しかし、みんないっつもこんな話しているわけ?
「もちろーん!」そうなんだ、どこの国も一緒ねえ(笑)「一番はじめのエクスパットはね、南米の人だったんだけど、ものすごくオープンでねえ、いろいろ話してくれて、すっごい楽しかったんだから!」
マジですか?いやー、私はみんなに話せるようなそんな武勇談(?)は無いんだけどねえ。
「彼女がいろいろ教えてくれたから、私達だって性生活について結構知ってるんだから!」
なるほどね、そりゃ興味深いよね。「前ここにいたスタッフがね、夫婦関係で悩んでいてね。旦那さんのほうがなかなかできなかったみたいなの。お互いに初めて(もちろん?)なんだけど、うまくできなかったみたいで。で、新婚だったんだけど、1ヶ月くらいセックスレスになってしまったんだよ。それで、スタッフが彼女に相談してね、どうしたらいいかって。彼女は (まず旦那をしっかり寝かせること!)って言って、(で、夜中に突然起こして誘うと結構成功するわよ。)
って教えたの。それで夫婦関係うまくいったんだから。」ほー、すごいね、初めてで気合入りすぎてたんだろうね。しかし、やっぱ南米の人はあっけらかんとしているよね
「ねえ、たまきこのジョーク知ってる?ある新婚カップルの話なんだけどね。」
ふんふんなあに「この2人結婚したんだけど、旦那がいつまでたっても手を出してこないのよ。で、彼女が痺れをきらして、彼に聞くの
(ねえ、ダーリン、あなたに唇はあるの?)(もちろんさ、僕の唇は牛のようにぶ厚いぜ)
(ねえ、ダーリン、あなたに手はあるの?)(もちろん、僕の手は働き者の手で、立派だぜ)
(ねえ、じゃあ、はじめましょうよ)そこで彼はねえ、自分の手で唇ブルンブルン鳴らして遊び出すんだよー!」
(大爆笑)なるほどね、これうまいねえ、これってアフガニスタン人がそれだけ性に対してオープンじゃないことの比喩話だね。アフガニスタンの女性ってさ、こんな話しないと思っていたよ。びっくり。でもさ、ふつうだよねそう言う話に興味あるのって。うんうん、それでもそんな話ジョークにして笑えちゃう彼女達って素敵。ちょっと、また面白い話があったら教えてほしいなあ。一応、私半年はいないといけないから、変な想像されちゃうのいやだし、全部は話せないねえ(苦笑)残念ながら。
(19)マタニティの夜は長い
DBクリニックのマタニティは24時間オープンで、いつでも分娩に対応できるようになっている。昼間は、外来3人、マタニティ3人で仕事を回し、夜勤は3人一グループで回している。夜の勤務は長い。冬は昼の3時から翌日の朝8時まで。夏は4時から次の日の8時までだ。今まで夜勤に参加した外国人スタッフはいなかった。セキュリティの問題が一番で、今まで外国人スタッフにとって安全かどうかの判断は難しかったようだ。カブールの中心部と違って、国連部隊のパトロールも頻繁にあるわけではない。私が夜勤をはじめたのは2月に入ってからだった。一番の目的は、夜間どのくらいの患者がいて、助産師が十分に対応できているのかを知るためだ。夜間に病院に搬送された患者の中には、なんで搬送したのかはっきりわからない例や、異常を発見してから搬送までにやたら時間がかかっている場合があって、対応が不充分なんじゃないかと思ったこともあったからだ。とにかく、一緒に働いてみて、何か改善できることや、困っていることを知れたら良いなと言う思いが大きかった。
夜勤に参加して、良かったことはやはり、実際に夜中にどんな患者さんがかけこんでくるのか、良くわかると言うことだった。昼間よりも常に内容が濃かった。夜勤の患者数は昼間よりも多いのだ。平均して、夜中の勤務帯に10件くらいのペースでお産があった。マタニティのベッド数は11床。うちでは夜間にお産になった人は、朝まで入院してもらうことになっていた。新生児検診とワクチン接種を行うためだ。朝8時すぎ頃から、小児科医がやってきて診察を行っていた。お産の後もとりあえずいてもらわないといけないから、患者数が11人超えてしまうとベッドをシェアしてもらわないといけなかったり、診察室のベッドを仮に使ってもらったり、ストレッチャーをベッド代わりにしてもらって対応することもあった。そんな風だから、夜間はお産が忙しくて、次々に生まれていくし、重なるときは重なるのでその辺の仕事のやりくりが大変なところだった。
夜勤のメンバーは3人ずつの固定チームで、3日に1回の夜勤を定期的にまわしていた。夜勤専門と言うことだ。多くはM病院で働いたことのある経験のある助産師達である。
今日はラジアとサフィナとシーマだ。もちろんレイリーにも一緒に夜勤をやってと頼んで
(もう、私達一心同体ですから)。夕方のマタニティは静かだ。昼間にお産をした人達は帰ってしまったので、今は誰もいない。ちょうどこのゆっくりした時間は、ガーゼや機材の滅菌など、雑用業務をこなすのにちょうどいい。みんなで、スタッフルームで話をしながら、手際良くガーゼを織ったり、臍の緒を縛るための紐を紙に包んでいく(これをまとめて滅菌するのだ)夜勤の良いのは、空いた時間にいろいろな話ができることだ。中でもラジアはマタニティのなかで結構年配の方で、経験が多い分いろいろな話を聞くことができた。彼女はタリバンの統治時代、病院で働くことができなかったのだが、アフガニスタンの女性達のために、お産があればどこにでも出かけていった訪問助産のようなことをしていたのだ。
女性が病院やクリニックに行けないで、自宅で出産をする母親にとって、彼女のような存在はどれだけ心強いものだったろう。ある時は、ロケット弾が外をとびかっており、とてもじゃないが外出なんてできない夜があった。そんな時、少し離れたところにいる彼女の友人の家族がお産になりそうなので、助けてくれと彼女のところにやってきたそうだ、乗っていける車はぼろぼろの軽トラックだ。危険だから行くな、という教師をしている夫の声を背中に受けながら
「でも、私が行かなくちゃ。」とトラックの荷台に乗り込み、タリバンに見つからないように、荷台に隠れてお産に向かったんだそうだ。自分の危険も省みず、簡単にできることじゃない。
「ちゃんと元気に産まれたのよ。」と誇らしげな笑顔で、こともなげに言う彼女に、本当に感激した。ここにもこんなすばらしい人がいるんやなあと、本当に私は思わずラジアをきゅっと抱きしめてしまった。年齢でいけば私の母親のようなラジアは、日本からきたこんな小娘の私にとても優しかった。彼女はいつも産婦さんの横に寄り添っているイメージだった。夜勤をやっている中で感じたのだが、彼女はいつもどんなときも、常に女性の側に立っている。決して産婦を責めたりすることはなかった。
夕飯の準備もはじめながら、私達の話は尽きない。こんな辛かったころの話でも、ニラやラディッシュを洗いながら歌うように話してくれる。彼女達は本当にしなやかで強い。夕飯ができるころから、ちらほらと産婦がマタニティに来始めた。夜中で一番忙しいのは夜中の2時ごろなんだそうだ。今入ってきた人は初産婦で6センチ(子宮口の開大)なので、夜中のお産になるだろう。陣痛はいい痛みが来ている。食事を勧めて、時々歩くように説明する。そうこうしているうちに次の人がやってきた。こちらも初産婦で4センチ。少し時間がかかりそうだ。アナムネを聴取して、部屋へ案内しとりあえず、自分達も食事をとることにする。食事の間も交代で、産婦をのぞきにいく。
お産までの経過はパルトグラムを使って定期適に観察するように、何度かトレーニングを行ったが、以前は入院から分娩まで1回も胎児の心音をチェックしていなかったこともあったようだ。この辺はちゃんとやれるようにしないと。分娩数が多いからこそなおさらだ。忙しくてちゃんと観察ができないようでは意味がない。メンバー間で、いかに情報を共有できるかと言うことが、少ない人数でやっている関係上、とても重要なのだ。
食事が終わるか終わらないかくらいで、8センチの経産婦がやってきた。分娩室に直行だ。すぐに産まれるだろう。みんなが分娩室に集中してしまうので、待機室にいる二人の様子を観察する。分娩はラジアが担当している。ラジアならまかせて大丈夫。また、一人入院だ。どうやら破水らしいけど、陣痛は無いようだ。児頭も固定していない。CPD(児頭骨盤不均衡)かなと思う。初産婦かあ、これは多分搬送したほうがいいな。ちょっと太っているし、むくみもある。よし、搬送。
急ぎではないので、紹介状を書いて病院に行くように説明する。分娩は1件終わったようだ。正常分娩、出血も正常。赤ちゃんも問題なし。よし。
また入院だ。ちょっとこの人はおかしくない?顔色がめちゃくちゃ悪いね、土気色?性器出血がある?腹部触診で明らかな板状硬をみとめる。血圧は140・90mmHg。これは多分、常位胎盤早期剥離だ。すぐに救急車の手配をする。意識ははっきりしている。おなかが痛いという。児心音がはっきりしない。うまく聴取できない。赤ちゃんはだめかも知れない。サフィナが紹介状を準備する。夜中だから救急車はすぐにくるだろう。
叫びながら別の産婦が、家族に抱えられながら入ってきた。4経産、そのまま分娩室だ。サフィナに早剥の患者を頼んで分娩室にいく、ラジアはお産に入ったばかりで、まだ産後の処置をしている。シーマと一緒に分娩に入る。分娩セットを大急ぎで開ける。シーマちゃん手袋すぐつけて。産婦を分娩台に上げ、児心音を確認、オキシトシンの筋肉注射を準備し、呼吸法の説明をする。落ち着いて、大丈夫ですよ。シーマの準備ができた、早剥の人が気になって診察室をのぞく。もう、救急車で運ばれたよ。そっか、速かったね救急車、大丈夫だといいけどね。たまき、こっちもお産になりそうだよ。6センチの初産婦が全開で分娩室に搬送される。サフィナがお産につく、ラジアが外回りできるみたい。おっけー、レイリー私達はこっちにつくよ。シーマの分娩介助も丁寧にやっていて大丈夫。産休明けだけど、全然問題ないね。赤ちゃんは元気だね、よしよし、泣いてるね。
急がなくって良いよ。ん、私が赤ちゃん処置するし、お母さんよろしくね。おーおー、元気だねこの子は。レレちゃん、ちょっと赤ちゃんの服家族からもらってきてもらえる?あれ、そっちももうお産になったの?早かったねえ。さすが、ラジアは赤ちゃんに服着せるのもなれているよねえ。私はどうしてもこの赤ちゃんぐるぐる巻きがにがてなのよね。いやー、やっぱり手際が良いわ。ねえ、ごめんレイリー、ここちょと持ってもらっていい?ありがとーねー。そっちも赤ちゃん大丈夫だね、ん、少し寒いからしっかり毛布でくるんでおいてね。そういえばもう一人残ってる初産婦さんは?いま8センチかあ、1時くらいになるかね。多分ね。お産後の人達は問題ない?バイタルオッケーだね。
「患者さんが来たよ。」クリーナーのアワグルが呼びにくる。若いな、初めての妊娠?あれ、何週なの、出血?はー、流産かな。出血いつから?量はそんなに多くないね。昨日かあ、最後の生理はいつ?おぼえてないよねえ。んー、でもこれはまだ週数浅いね。なにか固まり出ましたか?出血だけ?そうか、ま、とりあえず出血多いし、流産は間違いなさそうだから、病院に搬送だね。バイタルは問題ないね。どうする?救急車でいく?タクシーで来てるからそのままいってもらったほうが速いよ。だね、多分。と言うことですので、紹介状書くので病院ですよ。多分流産で処置が必要になりますからね。しかし、搬送多いね今日。はあ。あ、そう言えば電気っていつまでなの?え、今日は特別12時までなの?なんだ、なに私がいるから?いいのに、気を使わなくって。って普通に使えるなら普段からそうしてもらいたいよね。
あ、じゃあもう切れるんだね。もう12時だ。ガスランプ準備しようよ。あ、まってちょっとトイレ。行きたかったのに、行くの忘れてた(笑) いつもこんな風なの?ひっきりなしだね。これは大変だわ。レイリー大丈夫?しんどかったら休んでてね。私必要なときは呼ぶから。ね。
産婦と褥婦さんたちがいる部屋で、ラジアとサフィナは授乳の指導を一人一人行っている。産後できるだけ速くおっぱいを含ませる。口をパクパクする赤ちゃんの口元を指でつつくと一生懸命探して吸おうとする。ガスランプの光が、あったかくて、光に照らされながら授乳している姿がすごくきれいだ。
ラジアちゃんつかれない?大丈夫?サフィナは元気そうだね、すごい体力だね(笑) シーマは機材の滅菌?3つセット使ったもんね。そろそろ、交代で休憩とってね。持たないから。あ、ぼちぼちあの人お産になるかな?よかった、順調に来てるね。
この後、全部で4件の入院があり、そのうち2人が分娩室に直行だった。夜のマタニティはそこだけが別世界みたいに忙しい。朝5時にまたジェネレーターがつく、薄明かりに慣れていたから、思わずまぶしくって目がしばしばする。サフィナは分娩後のナートを手際良くやる。日本の病院では助産師はナートしないから、いつも感心してみる。さすが。シーマは赤ちゃん一人一人チェックして、へその緒を結んだ紐が緩んでいないか確認する。今日は正常分娩ばかりで楽だったね。空がうっすらと明けてきた。
「たまき、ちょっと外の空気吸って来ようか。」レイリーに誘われてマタニティの外にでると、朝6時と言うのにすでにたくさんの患者さんが番号待ちをしていた。空気がひんやり冷たいのに、乾燥しているからそんなに寒く感じない。体はつかれているのに、頭だけ妙に冴えている。夜勤明けの感じ。マタニティに戻ると、産婦、褥婦さんたちは朝食の時間だった。朝はナンと卵二つの目玉焼きなのだ。クリーナーさんが手際良く準備する。食事の準備が終わると、みんながいっせいに化粧をしだす。アフガニスタンの化粧は、アイラインがばっちりですごいんだよね。おー、みんなどこかいくの?えー、別に特にないけど、化粧はちゃんとしなくっちゃ。人前でやつれたところなんて見せられないもの。そうなんだ、わたし疲れまくってるんですけど(笑)
たまきもちょっと化粧する?ほら口紅だけでも。たまき白いからね、顔色悪く見えるよね。そう?じゃ、お願い。でも、なんか変じゃない?変じゃないよー、このほうがいいよ。ふふ、アフガン好みとしてはでしょう。いいの、いいの、私はこのままで。はい、ありがとね。たまきは朝ご飯は?卵食べる?んー、疲れて食欲がない(笑) だめねえ、食べないと元気でないわよ。みんな元気だねえ、ほんとに。感心するわー。
申し送り前に、もう一度患者をすべて回って状態を確認する。使った備品をきれいにして、元の場所に戻す。使ったものを補充する。分娩室に血液汚れが残っていないか確認する。そうこうするうちに日勤がやってきた。もう8時なんだ。おはよう、忙しかった。うん、まあまあお産があったよ。いくつか搬送もしたし。でも、なんとか回ったわ。お疲れ様ね。じゃ、申し送りやろうか。今一人分娩室に入っているから、そっち誰か一人代わってくれる?了解。こうして夜勤は終わる。レイリーと車に乗り込み、オフィスへ戻る。帰りの車で横になったらそのままオフィスまで熟睡してしまった。マタニティの夜は、長く濃いのである。
(20)自分にできることできないこと
MSFではたとえば長期の派遣になると、3ヶ月に一回は国外に出て休養を取るように言われる。自分の国の環境とは違う環境に置かれて、異文化の中でぶつかりながら仕事をするというのは、思った以上に疲れるもので、さすがに3ヶ月も立つとなんだ集中力が切れているのである。アフリカのように暑いわけでもないけれど、なんといっても
「自由に行動できない。」ストレスは計り知れない。この3ヶ月、誰かと一緒にいないときがなかった。自分の部屋で寝るまで、とにかく誰かと一緒にいる。ちょっとそこまでっていう買い物さえできないような状況だからやはり息が詰まるのだ。アフガニスタンは危険な国ということなので、アフガニスタンの中で休暇を過ごすことは許されていない。とにかく国外に出ないと行けないのだ。ここからだと、まずバクーの空港までの飛行機代は出してもらえるので、そこからは自費でどこにでもいってこいって感じだ。くる前にまったく休暇について考えていなかったので、どこに行こうかまったく考えが浮かばなかった。たまたまゲストハウスに誰かが置いていったらしい、トルコのガイドブックがあったので、
「じゃ、トルコにでも。」ということになったのだ。
この旅行の時期、私はかなりへこんでいた。というのは、前述の大病院とのやり取りの中で、自分の力不足を痛感していたからだ。要するに、初めてのミッションで、甘く見られて、助産師だって言うことでつけこまれて(医者じゃないってことで)、フィルコにも
「たまきの後任は医者がいいと思うわ。」なんて言われて、これじゃあ、まるっきし私役立たずみたいじゃないですか。ドクターができることはもちろん大きいけど、女性に付き添って、保健指導をメインにした活動において助産師ができることは大きい(と思う)。乳房のケアなど、医者よりも良く知っていることもあるのだ。それでも、アフガニスタンでは、助産師って仕事として、分娩を取り扱うって言うことだけを取り上げていて、保健指導の必要性とかなかなかわかってもらえないのだ。私の場合、自分の直属のボスにも、そう言う風に思われているって言うことで、へこんでしまったのだ。
トルコはきれいだった。女一人で旅行ができる国だ。信じられない。 一応イスラムの国なのに、全然違う。スカーフかぶらなくってもいいのだ。同じイスラムの国でも違うのねえ。男の子達の押しの強いナンパや、お店のおじさんのイスラム原理主義についてのディスカッションなど、リラックスしに来たのに・・・と思わないでもない出来事もあったけど、それはそれで、楽しい経験であった。でも、やっぱり自分のミッションのことが気になっていた。それに、おかしなことに、いつも誰かと一緒にいたせいで、一人が寂しくて仕方ないのだ。3日くらいすると、寂しくて
「アフガニスタンに帰りたい。」という気分になっていた。自分はたいしたことはできないということは、本当に良くわかっている。でも、私のいる意味があるのかなあ。トルコにいる間中こういうことばかり考えていたので、精神的にはあまりリフレッシュできなかった。
アフガニスタンに帰ってきてから、いつも通りの生活が始まり、ほっとしたのも事実だ。でも、自分が本当に役に立っているのかという不安が付きまとう。なんとなく、そういう気持ちってうまく表現できないのだ。困った、しかし、何がどう困っているのか。ラジオルームでメールのチェックをしているとボスが入ってきた
「おっ、たまき元気?今まで出かけていたんだ。トルコはどうだった?楽しかった?」
「んー、きれいだったよ。たくさん歩いて、足が筋肉痛になった(笑) でもね、変な男の人に付きまとわれたり、誘われたりして、ちょっと鬱陶しい感じだった。一人で少し、寂しかったし、一人じゃなかったら良かったな。」
「そっかー、エンジョイできなかったの?」「一応、楽しかったよ。」私は笑顔半分で答えた。ちょっとパワーダウンしている。彼が心配して
「たまき、仕事はどう?困っていることはない?」って聞いてきた。困っていることか、良く分からない。これは困っているのか?
「なんかね、病院といろいろあったでしょ、それで、私は自分が役に立っているのかなって少し疑問なんだよ。なんか私、役立たずな気がするの。」
と言ったら、ボロボロ泣けてきて、すごくびっくりした。仲間のところに戻ってきた安心感で緩んでいたところに、自分が役立たずなのかなーって思っていた気持ちがどどーんとぶつかって、堰を超えた感じ。彼も正直、ものすごい驚いたようだった。
「なんでそう思うの?」「うちには産婦人科医がいないことをかなり言われたジャン、直接言われたわけじゃなくても、助産師になにができるって感じやったやン。フィルコにも私の次は医者がいいってね、私がいるうちからいわれたら、もうすでに役に立ってないから早く帰れって言われているみたいよ。やりたいことはたくさんあるし、保健指導の面でまだまだトレーニングしたいこともたくさんあるのよ、でもそう言うの大事じゃないんやろうか?アフガンスタッフも技術的なことに集中していて、ちっとも保健指導の重要性とかわかってくれないし。」
なんか心につかえていたことを全部吐き出すみたいに、ばーっとぶちまける。いやだ、もう、ほんとに子供みたい。
「誰かひどいこと言った人がいるの?」違う違う、誰かが悪いとかそう言うんじゃないの。ただね、自分がこの状況におかれて、すごく役立たずに思えるのよ。
「そうかー、たまきさあ、深刻に考えすぎなんだよ。病院がいろいろ言ってきたのも、結局はうちで何人か医者を雇わせたかったから、だっただろ。そういう政治的な圧力って働くんだよ、こういうところではね。たとえば、確かにたまきは初めてのミッションだし、若いし、つけこみやすいよね。でも、それを間に受けて、たまきが罪悪感もつ必要はないんだよ。だって、相手が言っている事は、実際、事実とは違っていただろ。たまきが悪いんじゃないんだよ。自分を責めて、自分のせいにして抱え込むのは良くないよ。こう言うのはチームで解決していくことなんだ。病院との事は、コーディネーションに任せてくれればいいんだから。保健指導はこういうミッションではすごく大事だよ。たまきができることはいっぱいあるよ。いいんだよ、ファーストミッションなんだよ、とにかく。始めっからからなんでもできる人はいないんだから。アフガンスタッフに伝わらないときもさ、とにかく、大きな壁があるとするだろ、はじめは崩せなくても、とにかくたたきつづけたら変わるんだよ、いつか。そういうもんだよ。」
そういうもんかな?なんかまだ、半泣き状態なんですけど。それにその押しつづけるって言うのも、なんか私的にはちょと納得できないような・・・。
「たまきさー、もっと気楽にミッションを楽しむこと考えて良いんだよ。フランス人の女の子なら、ただ、アフガンライフを楽しむことだけに集中するよ(笑) なにって特別なことができなくてもね、アフガンスタッフと一緒に汗を流して働くことが大事なんだよ。そこにいること、それがなにより大事なんだから。OK?」
ん、わかったようなわかんないような。「ごめん、泣いて。」恥ずかしい、ホントに。でも、単純に楽しむって言うのも、実はよくわからないんだよ。どうやって?って思ってしまうのね。
「それはそうと、ほんとにいじめられたりしてないだろうね。」「ないない、それは、大丈夫(笑)。私、スタッフのことはみんな好きなの。」
「それは良かった。それにしても、君はこんなこと旅行の間もずっと考えていたの?ほんとに。誰かと一緒に行けるように手配したら良かったな。」
「ありがとう、今すっきりした。聞いてくれてありがとうね。」「お安いご用。困ったことがあったら、いつでも言ってよ。」
ミッション中に人前で泣いたのはこれがはじめて。いつもニコニコが普通の状態だから、彼はかなりびっくりしていたけど。私はなぜかすごくすっきりした。
私にできることって、あるって言えばあるのかもしれないし、ないって言えばほんとないのかも知れない。ああー、泣き疲れた。久しぶりに泣いた。いろいろ溜まった心のクリーニングの時期だったんだろうな。日々目にする厳しい状況と、自分の小さな悩みのギャップにいつも感情がセーブされていく。自分達の恵まれた生活と、現地の人の生活の違いに心が痛むし、自分の悩みは下らないって思ってしまうからね。でも、わかりきったことなんだ。私の考えることなんて、まったくもってくだらない些細なことなんですよ。さて、ちょっと、自分のこと考えるのはお休みにするか。肩の力抜いて、深呼吸して。はあー。また明日、いつもどおりの一日が始まるのだ。
(21)板ばさみ
アフガニスタンに来て、しばらくは状況を把握するのに時間がかかって、レイリーに助けてもらうことが多かった。大体、前任者は大した引継ぎもせずに
「あとはレイリーに聞いてね。」だったからな。私達はいつも一緒で、彼女なくしては私の仕事が成り立たないような感じだったのだ。レイリーは一言でいうと、はっきりした性格でものすごくわかりやすい人だった。うれしかったら10メートル先からでも幸せオーラ全開なのがわかるような人で、落ち込んでいると一言もしゃべらないから。
そんなレイリーとはじめ一緒にやっていくのは結構大変だった。私がやりたいと思うことでも、レイリーが「うん」と言わなければできなかったからだ。それに、以前のエキスパットと私のやり方を比べて意見することが多かったのだ。
「ナタリアのときは、こんなに毎日クリニックにずっといるなんてなかった。バザールに買い物行ったり、パーティーもよくやったんだよ。」
「ジェニーはよく病院に行くって予定表に書いて、こっそりバザールに行ったよ。たまきももっと遊びに行こうよ。」
いったい前任のエキスパットは何していたんだって思うでしょ。いつもじゃないですよ、もちろん。ちなみに私達の直属のボスであるフィルコは、ものすごく厳しく毎日の予定を事細かく報告させる人で、常にみんなの動きを監視している人だった。自由奔放のレイリーとこういうきちきち人間のフィルコの相性が良いはずもなく、はじめっからレイリーは反抗的な態度だった。
「あんな風に毎日、人のやることを縛ろうとするなんて信じられない。自分のやるべきことなんて、みんな自分でわかっているわよ。なんでいちいち命令されなきゃなんないの?」
と言う具合だ。フィルコの彼女が来てから、いろいろなあなあになっていたことが、かなりしっかり整頓されたのは事実だ。でも、レイリーはとにかく気に入らないらしく、口を開けば
「前任者は最高のフィルコだったわ。彼女みたいに人にものを言いつけるようなやり方絶対にしなかった。」
「彼女がくる前は本当に楽しかったのに。毎日みんなに会うのが楽しくて、うきうきしてきたものよ。でも、今はねー・・・。」
こんな具合で私にとってもこれは他人事ではなかった。なんにせよ、私はこのフィルコの下で働かないといけないのだ。それに上に立つ人間が厳しいのは当たり前じゃないのかなって私はフィルコについて、わるい感情は持っていなかった。最初これがどれだけ大きな障害になるかってこと、気づいていなかっただけだけど。
フィルコはレイリーの強い性格をあまり良く思っていなくって、彼女が私にとって通訳以上の存在になっていることが気に入らないようだった。
「彼女はたまきをコントロールしすぎるわ、あの子は強いからってたまきは良いなりになっちゃだめよ。」
とくぎを刺され、レイリーからは「彼女の言うことばかり聞いていたら、たまき楽しんで仕事できないよ。もっと強気で自分のやりたいことやれば良いのに。」
といった具合。私とフィルコの関係は別に悪くなかったし、私とレイリーの関係も悪くないのに、いつもどちらかの文句を聞く羽目になったので、結構辛かった。決定的になったのは病院とのごたごたがあった時だ。ある病院のディレクターと話し合いをするの言うので、うちのフィルコとメディコが一緒に出かけることになったのだ。私もマタニティに関しては大きく関わっているので、話し合いに参加したいとフィルコに言ったが
「たまきはこないほうがいいと思うわ。くる必要もないし。ただ、通訳が必要だからレイリーを貸してほしいんだけど。」
とのこと。残念。まあ、いいけど。「えー、なんでたまき来ないの?」とレイリーに聞かれたが、フィルコの判断だし仕方ない。
「私オフィスで待っているし、終わったらDBに行こうね。」と伝えて、オフィスでプロトコールの作成とか、トレーニングの資料を作っていた。多分話し合いが終われば、連絡をくれるだろう。車で彼女を拾ってそのままDBに行けばいいや、と思っていた。すると突然レイリーが帰ってきた。
「ただいま。ねえ、私どうやって帰ってきたか聞いてくれる?一人でタクシーに乗って帰ってきたのよ!信じられる?彼女、ここから先はあなた必要ないから一人でオフィスに帰ってくれるっていったのよ!こんな目にあったのはじめて!」
と、かなり怒り狂った様子。話し合いが終わってから、フィルコとメディコはそのまま難民キャンプに向かったそうだ。が、そのときに
「ここから先はあなた必要ないから、タクシーで帰ってくれる?」という言い方だったそうだ。信じられない思いだったけど、わかったと言うと、メディコが気にして
「女のコ一人で大丈夫?」と聞いたそうだが。彼女は「あら、大丈夫よね。たまきが待っているし、急いで帰ってね。じゃあね。」
とバザールに残されてしまったそうだ。女一人タクシーに乗るというのは、最近では珍しいことではないだろう。でも、要するに言い方である。こんな風に扱われたということだけで、彼女は憤慨しているのだ。"必要ないし"は、まずいんじゃないの。
「なんだ、私を呼んでくれたらそのまま迎えに行ったのに。なんで呼んでくれなかったの?変ね。で、レイリーお金どうしたの?タクシー代。」
「自分で払ったわよ。そんなことも気にしてくれなかったんだから。」「本当、それはちょっとひどいね。聞いてみるよ、ちゃんとタクシー代は出してもらわないとね。」
「もう、良いのどうでも。この事はもう言わなくて言いから。」彼女は相当頭に来ていたらしく、その日は結局午後仕事にならなかった。マタニティで会う人会う人にその出来事を話して回っているような状況で。これはちょっと不味いなあとおもい、フィルコに聞いてみることにした。
「ねえ、今日レイリーが一人でタクシーで帰って来たんだけどさ。」「あー、私達行く所があったから、あそこで降りてもらったのよ。」
「うん、でもね、なんかすごくショックだったみたいよ。一人でタクシーで帰されたってさ。」
「なにいってんの?時間もなかったんだし、仕方ないじゃない。」「ん、でも、私も車で待っていたわけだし、私を呼んでくれたほうが良かったと思うよ。一人でタクシーに乗るのは抵抗があったみたいよ。タクシー代とかも。」
「彼女が大丈夫って言ったのよ?タクシー代?そんなこと気にしてるの?アドミのほうから出すようにするわよ。」
なんだか、あんまりレイリーが怒ったこととか気にしていない様子。この人はほんとに人の気持ちに鈍感なのか。それにしてもこの威圧的な言い方、本当になんとかならないのか。私まで腹立ってきた。もう、話すのもあほらしかったから、そこで切り上げてしまった。
「レイリー、ねえ、お金は出してくれるってよ。」私も何気なく不機嫌になっていた。「何、どうしたの?」
「別に。ねえ、彼女が特別なわけ?ヨーロッパの人ってああ言う風なわけ?」「絶対彼女だけ特別だよ。今までヨーロッパの人たくさんいたけど、良い人ばかりだったんだから。」
ふーん、そうか。まあ、良いや。どうも彼女の上から言い付けるやり方が気に入らない。これではみんないやな思いするんじゃないか?でも、普通フィルコってこういうもんなのか?ダリー語話せるのに、もったいないよなあ。
なんでもかんでもすぐに「NO」を連発する彼女に、ナショナルスタッフがつけた名前は
「ネネ (ダリー語でNO・NOということ)」やっぱり、聞く耳は持ちたい。人の振り見てわが振りなおせというし、反面教師と言うことだ。この出来事に限らず、この後も彼女のやり方に反発するナショナルスタッフは多く、私は常に彼女の悪口を聞かされる立場だった。私は一緒に住んでいるわけだし、オフィスでは間に立って気を使うし、家でも彼女と一緒に過ごさないといけないしで、リラックスできることがなかった。私より一月あとにやってきたひさみさんはもっとストレスを感じていたようだった。英語で思うように言い返せない分、不利だったようだ。女ばかりだと」ぎすぎすしてしまうものなのだろうか。
毎朝のミーティングから、スタッフの表情は硬い。「あの件についてはどうなっているの?そっちが優先よね。」
「何言ってるの、全員に車があるわけじゃないのよ、今日じゃなくても良いことよね。他の人の動きも見て予定を決めてちょうだい。」
自分の予定が最優先で、他のスタッフの仕事内容にまで細かく注文をつけてくるもんだから、アフガンスタッフはいつもうんざりしていた。
「全員に車はないだって??車をアレンジするのがコーディネーションだろう!」
と、ブーイングの嵐。そして、彼女はそんなことどこ吹く風。はああ、これ疲れる。何が疲れるって、彼女に言っても、私の意図するところがまったく伝わらないし、感覚が違いすぎてダメなんだよ。
アフガンのナショナルスタッフに対する評価表作成の時は、私はレイリーの評価を一緒にやることになったんだけど、彼女はレイリーが通訳以上の仕事をすることをいやがっていたから(仕事内容について、私にアドバイスするなど)
「これはトランスレーターの仕事じゃないわよね。」なんてはき捨てるように言ったりしたものだから、私は内心レイリーが怒り出すのではないかとどきどきしていた。私は、どうしても争い事が嫌いなのだ。事なかれ主義と言われても、争い事はきらいなの!
「あの人は私を押さえつけようとしている!」レイリーの反感は大きくなるばかりで、正直困ってしまっていた。
あることがきっかけで、ボスがレイリーの話を聞くことになり、すべてのスタッフを巻き込んでかなり険悪な人間関係だということが発覚し、コーディネーションで話し合いを持つことになった。今までのいろいろなことを指摘された彼女は
「ナショナルスタッフにきつく当たり過ぎた。」と謝罪することになったのだった。レイリーは自分の不満をコーディネーションが取り上げてくれたと言うことで満足し、彼女のスタッフに何か頼むときの態度も改善し、一時期ほどのぎすぎすした関係はなくなった。だが、彼女は自分の任期が終了するときに、スタッフに挨拶もせずに、フランスに発ってしまった。スタッフは
「お別れも言えなかった。」と残念を通り越して怒っていた。アフガニスタン人にとって、別れの挨拶をし、旅の安全を祈ると言うのは大切なことなのだ。例えば、関係の良い人じゃなくても。だけどさあんな風に気まずい目にあったら、こっそり帰りたくなるサー(苦笑)ほんとに勝手なんだから、もう。アフガンスタッフと一緒に働くのは難しい。相手の言いなりになるわけにもいかないし、でも相手に自分を好きになってもらえないと、仕事は進まない。で、エクスパットに何を一番望むのか聞いてみた。
「良い人であること、かな。技術とか知識じゃない、人として優しさにあふれた人。実は技術的なことはあまり望んでいないのよね。だから、たまきは大好きよ!」
なるほど。はあ、これ、よろこんでいいのかな、しかし。ふう。
(22)訪問診療できますか
クリニックで働いていると、クリニックの中だけでやることに限界を感じてくる。地域にかなり認知されてきているとはいえ、まだ人々に対する教育が行き渡っていないなと感じるからだ。先にも触れたように、家族の理解がなくて病院に行けなかった例がいくつもあった。こういうことから、継続して患者をフォローアップできないだろうかという話が持ち上がった。私が問題のありそうな人を全部フォローアップしてもいいけど、実際私の仕事がマタニティ全体のスーパーバイズだから、こればかりに集中してもいられない。それで、特にフォローアップをできる人を一人雇ってはどうかと言う話になったのだ。
フォローアップとか、家庭訪問をしようと思ったときに、一番面倒くさいのは車の手配だ。カブールプロジェクトで自由に使える車は3台。そのうちの一台がロジスティックにとられてしまっているし、フィルコがミーティングで車を使いたいと言えば、クリニック組の使える車は1台だ。その1台を使って家庭訪問に行かれてしまっては、クリニックには車がない状態になる。エクスパットは必ず車と一緒に行動しないと行けない。不測の事態に備えて、いつでも避難できるようにするためだ。すると、コーディネーションがもっている車を借りる事になる。それでもコーディネーションは、他のNGOやアフガニスタンの保健省とのミーティングなどに出かけることが多いので、いつも空きがあるとは限らず、毎朝の車のやりくりは、非常に面倒なものだった。
それに加えて、仕事をし難くするのはセキュリティルールだ。どこかで事件が起きるとしばらく家庭訪問など、コミュニティに入っていくことを制限されるのだ。そういうわけで、実際患者フォローアップのプロジェクトを立ち上げても、足止めを食らうことが十分にありうるということで、なかなか前に進まない話ではあった。以前DBエリアで地域の人を雇って、教育グループを作ったことがあるようだ。定期的に人を集めて教育をしたり、調子の悪そうな人がいれば、クリニックに来るように薦めるなどして働いていたようだ。
「あのグループがあったときは良かったわよ。家族の理解がなくて病院にいけないなんて聞かなかったもの。」
とレイリーが教えてくれた。では、なんで活動中止したのだろう。実はこれもなかなか難しかったのだ。報告書によると、コミュニティに入っていく活動で、毎日地域の家々を訪ねて回っていたらしいが、本当にちゃんと仕事をしているか管理するのが難しかったそうだ。要するに、現地のスタッフに任せることになるんだけど、本当に活動しているのかチェックするのが難しかったらしい。日がな一日どこかでお茶を飲んでいても、わからないということだ。しかも、そのグループメンバーの親戚ばかりを訪問して、平等に活動するということができなかったと言うところがアフガニスタンらしい。ありがちな問題だが。とにかく、身内に都合の良いように動いてしまいがちなのだ。そんなわけで、その活動も中止となってしまったわけだが、コミュニティグループを立ち上げる必要性はやはりあるのではないか。とにかく、ハイリスク妊娠の人達だけでも、ちゃんと病院に行っているか、その後どうなっているのかフォローしていきたい。そこでフィルコが、あるNGOを紹介してくれた。TDHというスイスのNGOで、おもに助産師による家庭訪問を行っている団体だ。DB地域でも活動を展開しているこのグループは、カブールに事務所を構えてアフガン助産師を雇って仕事をしていた。
TDHは、カブールのいくつかの地域に分かれてグループで活動している。DBエリアで働いている助産師は2グループ4名。地域の各家庭をひとつひとつ回って、妊娠している人や、産後すぐの人、さらには今お産になりそうな人を見つけて、定期的に訪問するやり方だ。グループは保健省の管轄にあるMCHクリニックを拠点としており、病院からの紹介状を持ってフォローアップの依頼を受け付けている。朝の9時までは、こうした新しい依頼を受けるためにクリニックで待機し、9時からは家庭訪問に出かけていくのだ。家庭訪問はそうした紹介された患者さんのほかに、患者の家族が直接クリニックにやって来たり、近所の人からの情報をもとに患者の家を訪ねたりしていた、私達のクリニックでなかなか病院に行ってもらえないケースがあるのと同様、家庭訪問でも、さまざまなリスクを負った妊婦さんが病院に行くことを拒否している場合が多く、その家族を含めて説得することも仕事の中に含まれていた。TDHで働いている助産師の多くはかなりの年配助産師であるため、家族の説得ということに関しては適任のように思われた。アフガン女性の年齢は見た目からはわかりにくいのだが、明らかに60は越えている人が現役バリバリで働いている。彼女達は教育を受けた助産師で、病院での経験がある人もいたが、多くはプライベート助産師として、家庭での分娩を請け負ってきた人たちだ。アフガニスタンのお産の状況を知り尽くした人達が、家庭訪問をしてくれるということは、女性にとってはさぞ心強いことだろう。一日に5件から10件の訪問ができればいいと言っていた。時々ちょうど分娩に遭遇して介助にあたることもあるといっていたが、主な仕事は妊婦検診、産後検診、新生児検診、家族計画指導であった。
彼女達が拠点にしているクリニックのひとつを尋ねて、活動について質問をしてのだが、DBクリニックとは比べ物にならないほど、設備は不充分で、クリニックにあるトイレも、使用後手も洗うところがないような状態であった。いまにも崩れそうな小さな建物の2階が、クリニックだ。TDH助産師の他に、保健省から派遣された予防接種班が、子供達に予防接種を行っている。小児科の医師が一人駐在していたが、診療の数自体は多くないようだった。TDHの部屋には一応診察用のベッドがおいてあるのだが、それ以外の備品は一切なし。窓にガラスが入っておらず、ビニールをテープで貼ってしのいでいるような状態、床はタイルがはがれているし、壁には無数に亀裂が入っている。もちろん電気はない。この設備の違い。MOHはすべてのMCHクリニックをサポートできるほどの十分な財力がないのだ。よって、MSFのようなNGOが支援して設備面でもサポートしてもらえない限りは、こんなレベルでしか運営できない。TDH助産師の使用している備品はいろんな団体から寄付されたものだが、十分とは言えない。必要最低限の備品で、なんとか回しているという感じであった。
「MSFがこのクリニックも援助してくれるといいのに。」とTDH助産師は言っていたが、距離的にもそこそこ近くに位置するこのクリニックを支援するよりは、患者を受け入れて今のDBクリニックを充足させたほうが懸命だと思われた。
ともあれいくつかの話し合いを経て、DBの患者で病院に紹介したケース、病院から退院したケース、家族の理解が十分に得られなかったケース等フォローアップの対象として受け入れてもらえると言うこと、病気の患者を見つけた場合はクリニックに紹介してもらって構わないということなどで合意した。こうやって少しずつ、クリニックの外での活動にも関わっていけるといいのだが。
ちょうどそのころDBのクリニック付近で、強盗事件があり、それを捕まえようとした警官一人が殺された。そのために私達はますます、クリニック以外での活動は中止された。アフガンスタッフのみで運営ができて、活動の中断の心配がないこのような組織に、仕事を依頼できるのはほんとうにありがたいことだった。たったひとつの事件が活動内容を常に左右するような状況で、仕事を続けていくのは本当に大変なことだ。外国人ボランティアが入ることで、活動をスムーズに回せることもあるけれど、近頃のアフガニスタンの状況だと、外国人がいること自体が危険に結びついている感もあり、プロジェクトの運営の障害になってきている。自分の身に何か起きれば、アフガニスタンで活動しているすべてのMSFチームに影響を与える。自分一人の問題ではないのだ。
「これじゃあ、全然仕事にならないわ。」家庭訪問を活動の重点にしている、心理療法士のクリスは不満のようだったが、コーディネーション自体も、カブールで何か事件が起きたときに、安全レベルをどこまで上げるかということに苦慮していたようだ。
アフガニスタンにいて、どんな時に身の危険を感じましたか、と言う質問を何度も受けた。私は実際に身の危険を感じたことがない。私は常にアフガンスタッフと働いていたし、彼らと一緒にいて、地域に入って行っても、珍しがられるけど何かひどいことをされるなんてことはなかったからだ。みんないつも、どちらかというとボランティアの人間を大切に扱ってくれた。夜勤をしていたときも、マタニティのスタッフは
「夜中は危ないから、たまきは絶対に外に出ちゃだめよ。」と、とても心配して、マタニティに私がいることを知られないようにしてくれていた。地域の人の近くで、地域の人のために働いている分には、攻撃の対象にならないような気がしていた。地域からはなれて、活動を事務的なものに限れば限るほど、ボランティアの存在が実態の見えないものになっていくのではないだろうか。難しい問題である。訪問診療も簡単なことのように見えて、あちこちに障害があるのである。
(23)クリーナーさんたち
DBクリニック、マタニティは管理運営の面で、いろいろなNGOが参考にしたいと見学に来ることが多かった。特にマタニティは、多くのNGOが母子保健関係の活動をしていることもあり、見学者が多かった。DBのマタニティは、MOHがカブールにはこれ以上病院は建てないと決めるぎりぎり前にスタートしていたので、幸運にもプロジェクトのオープンができたのだが、新しくクリニックを建てたいと思っているほかのNGOはMOHの許可が出ずに苦労していた。
見学にくる人は、皆クリニックの清潔に保たれている様子に感心していた。他の病院などを見学に行っても驚くぐらいきたないからだ。R病院に行ったとき、トイレを借りようとして、あまりの汚さに躊躇した。水浸しの汚れた床に、汚物は散らばったまま、ドアはしまらないと行った具合だ。病院でこれじゃあ、とがっくりきたものだ。産科の病棟にいたっては、あちこちがとにかく血なまぐさい。血液の腐ったような臭いが、病棟中に充満していて、酔いそうだった。これが普通なのかも知れないけど、とにかく清掃が行き届いていない、というのが一般的だった。
DBマタニティはその点、かなり清潔には注意をはらっており、毎日の清掃、分娩後の清掃のほかに、毎週水曜日に大掃除を行っていた。全員で物品の点検もできて、きれいにできてとてもよかった。すべては徹底したクリーナー教育の賜物だ。
一度、みんなが勝手に大掃除をキャンセルしようとしたことがある。私が赴任してすぐで、私のことを試していた時期だったろう。当日にクリーナーさんたちが
「今日はみんなが集まらないからやめる。来週やる。」と言い出したのだ。こういうことはしょっちゅうで、少しでも仕事を減らそうとする。私は、自分が甘く見られているのはわかっていたけど、これはもうマタニティ創設以来続いている仕事で、やめることに同意したら、なし崩し的になってしまうことが目に見えたので、断固反対した。
「みんながやらないなら、私一人でもやるから!」と譲らずに掃除をはじめた。助産師たちは驚いていた。アフガニスタンでは、職種がしっかり別れてくる。掃除は助産師の仕事ではないのだ。要するに私の仕事でもないのだ。助産師に掃除でもさせようものなら
「私はクリーナーじゃない!」って反発されてしまう。だけど、マタニティの運営に関する仕事の責任は私にあるし、助産師だって、マタニティを清潔に保つということに関しては責任があるはずだった。レイリーは私に付き合って掃除をする羽目になり
「わたし、こんなデッキブラシもって掃除するのはじめて。手にマメができちゃったわ。」
とぼやいていた。アフガニスタンでは、教育を受けた人と、そうでない人の立場がはっきり別れるから、助産師がクリーナーと一緒になって掃除をするなんてなかったのだ。私は人の仕事を取るのは良くないと思うけど、教育の有無で立場がはっきり分かれてしまう状況はあまり良くないように思えていた。助産師によってはクリーナーさんを、使い走りにしている人もいて、なんだかちょっと違うなと感じていた。
アフガニスタンでは、年配の女性を呼ぶとき敬意を表して、名前の上に
「ホラ」という言葉をつける。「ホラ たまき」と言うような感じ。
「たまき おばさん」と言うような意味。ほとんどのクリーナーさんは年配の方で、みんな厳しい生活環境に置かれていた。アフガニスタンでは、教育を受けていない人で、クリーナーなどの仕事につける人はラッキーだ。ほとんどの人が職につけない。DBマタニティで雇われているクリーナーさんは、ほとんどが貧しい生活をしている人だ。ある人は、働いていたパン屋を突然解雇されていたが、そう言う人を選んで雇っている。みんなを雇うことができないのが残念だが、少しでも助けになれればと言うことだ、その中の日勤クリーナーのモセナは未亡人で5人の子供を女手ひとつで育てていた。モセナは夫を病気でなくしている。その後5人の子供を育てるためにクリーナーになったのだが、彼女は時々精神的に落ち込んで、泣くことがあった。彼女は、人に大きな声で
「ホラ モセナ!」と呼ばれたりすると、精神状態が不安定になるのだ。
「私は、時々自分が情けなくなるの。なんで、夫は死んでしまったんだろう。彼が生きていたら、私はクリーナーになんてならなくて良かったのに。こんな仕事をすることになるなんて。恥ずかしい。」
と言いながら、シクシク泣くのである。とても気の毒だと思った。彼女はとてもりっぱに子供を育てているのに、自分の仕事を恥じているなんて。未亡人の女性の置かれている状況はとても厳しい。
「あなたが5人の子供を立派に育てているんじゃないの!クリーナーであることを恥じることなんてない!あなたはすばらしい女性なんだから。」
と言って、レイリーと2人励ました。私みたいに、養わないといけない家族もなく、根無し草みたいにフラフラしている人間とは、背負っているものが違うのだ。本当に頭が下がる。アフガニスタンには、戦争などで、夫を失った女性たちを支援するNGOがあるが、未亡人の数が多すぎて、すべての人を援助できる状況にはなかった。ほとんどのクリーナーさんは裕福とは言えない生活をしている。でも、みな、本当にお母さんのようにやさしかった。夜勤のときにも疲れて少しの間横になっていたときに、そっとブランケットをかけてくれた。彼女たちは本当は働き者で、夜勤の時も常に掃除や洗濯をしていた。
こうして働いてくれる女性たちがいるからこそ、このマタニティを運営できるのだ。こうした女性たちを支援する仕組みが必要だと感じた。
(24)偏見
ここに来て非常に強く感じたのは、国籍に対する人々の偏見である。特に歴史によるもので、イギリス、ロシアの印象はもちろんあまり良くない。それでも、今一番アフガンの人が偏見を持っているのがアメリカである。アフガニスタンの人は、アメリカの空爆によってアフガニスタンが解放されたと思っている人はそれほどいない。それよりも身近に誰かが空爆で怪我をしたとか、亡くなったとか言うことが彼らを傷つけている。それに他の国に干渉されているということは十分不快なのだ。
自己紹介をするときに、国籍を言うのにいつも結構勇気がいる。ことさら自分が日本人であることを意識してはいなかったのに、国籍のイメージだけで結構受け入れられたり、られなかったりすることがあるからだ。アフガニスタンでも日本はアメリカに協力しているにもかかわらず
「日本はアメリカに脅されているんだろう。かわいそうに」とか「日本人は良い人達だ。アフガニスタンをたくさん助けてくれている。なんで日本はそんなにアフガニスタンに親切にしてくれるんだ。」
と聞かれて、妙に罪悪感があったのも事実だ。うがった見方かも知れないけど、政治において無償の親切ってありえないんじゃないか。間違いなく国益と言うものが見え隠れする。だから各国の援助でも、自分達が建てた建物や寄贈したものに、いちいち自国の国旗をつけてしまったりするんだろう。
アメリカと言う国に対して、自分自身もかなり悪い感情を持っていたことに気づかされたのは、病院であるNGOの人に会ったときだ。病院に搬送患者さんの情報を得るべく出かけていったときに、総看護師長室に2人のNGO職員がいた。
「ねえ、話しかけてみようよ。」とレイリーに押されて、二人に話しかけてみた。
彼女達はアメリカのキリスト教系のNGOから派遣されている助産師だった。アメリカ人と聞いてレイリーの顔が引きつっていたけど、話してみるととても気さくで良い人達なのだ。なんでもこの秋にマタニティのプロジェクトを開きたいと思っていて、その視察に来ていると言うことだった。
「それなら是非、うちのクリニックを見にきて!参考になるよ。」というと、びっくりした様子だったが、是非にとあちらのほうから申し込みがあった。
「ねえ、たまきアメリカ人にも良い人はいるのね。」とレイリーに言われて、私も同じように感じていることに気がついた。アメリカ人でもって言うのも変な話だが、ここ最近のアメリカの国としての態度が、アメリカ人を見る私の目を変えてしまっていたのだ。ちょっとショックだった。
数日後、約束通り彼女達は私達のクリニックを見学に来た。ちょうど夜勤に入っているときだったので、夕方からの訪問だった。夜勤のスタッフもアメリカ人と聞いてはじめ顔が引きつっていたが、しばらく話しをするうちに打ち解けていた。アメリカのイメージが圧倒的に悪いこの国に来て、NGOとはいえ活動をすると言うのはとても勇気が要ることではないだろうか。アメリカ人と聞くだけで、敵意を剥き出しにする人もいる中で、自分達の良心に従って人を助けたいという純粋な気持ちから活動をしている人もいるのだ。話していて、実は本当にアメリカの人というのは大らかで明るい人が多いんだよなあと言うことを感じた。その人達が特別なのかも知れないけれど、NGOで出会ったヨーロッパの人達よりも、なんというか威圧感がなくて、人懐っこくて、やさしい人だなと感じた。こんなところまで来て活動しようと言う人に、悪い人はいないようないがするけど、本当にそうだった。
海外で活動するとき、望むと望まざるとに関わらず、自分の国がどう言う国なのかということを考えさせられる。国として起こしたことは、個人的に私は反対だったと言い張ってみたところで、同じひとくくりにされてしまうのだ。アフガニスタンにとっての日本が良い国であることを願う。それにしても、国のもつイメージだけで、その人を決め付けてしまうというのは、いかがなものか。自分のなかにある偏見にも気づくことができて、なんだかとても貴重な体験をしたように思えた。
第3章|(1)〜(8)|(9)〜(16)|(17)〜(24)|
トップページへ
|
|