アフガニスタンボランティア −国境なき医師団助産師の6ヶ月−
波多野 環
<第4章 アフガニスタンライフ>
(11)ドラゴンバレー
バーミヤンにドラゴンバレーとよばれる谷がある。なんでそう呼ばれているかというと、長い話になるので省略。バーミヤンの南西方向にある、大きな谷で結構有名らしかった。昼過ぎにそちらに向かったので、日が落ちる前には帰らないといけない。ナジャが
「確かこっちだった。」と、道案内をする。運転しているのはわれらのリーダーのボスだ。ここでは外国人ボランティアも車の運転をしている。トヨタのごっついランクルをブイブイ言わせて走ること20分くらい?草原のようなところに出た。するとものすごーくでっかい犬が車をめがけて突進してくる。すごい、でかい!これってアフガンハウンドって言われる種類かな。遊牧民の人達は羊を守るために犬を飼う。普通の農業の人達も、家を守るために犬を飼う人は多いんだそうだ。
「あれ、おかしいな、こんなところに家があったっけ?」「!?」どうやら道を間違えたらしい。
「そうだそうだ、こっちこっち、はは、間違えた。」「ホントに大丈夫かよー、頼むよー。」
みんなから野次が飛ぶ。なんとなく谷っぽくなってきた。そり立つ茶色の壁はブッダの土とおんなじ感じ。びっくりするけど、こんなところにも人が住んでいるんだよ。茶色の山に穴を掘ったような感じで、家にしている。山を利用したマンションみたいだ。もちろん水道があるわけでもないし、水汲みに行く生活はおんなじだろう。すごいところに住めるもんだな。それにしても、日が傾きはじめたこの辺りは、空気が冷たい。ひんやりというか、乾燥しているので油断すると、気がつかないうちに指が動かないくらい悴んでしまう、そんな寒さ。両方にまっすぐにそり立つ壁のような山が見えてる。ここから歩くんだそうだ。アフガン男性陣はぐんぐん山を上っていく。私はこちらに来てからの運動不足がたたって、なかなかさっさとは登れない。これくらいで息が上がるなんて。
上につくころにはドラゴンバレーは夕日に包まれていた。オレンジの光が、谷にさす。頂上を歩いていくと、風が強くて飛ばされそうだ。みんな崖の端まで行くみたいだ。ちょと手の感覚がない。しまったな、ちゃんと厚着してくれば良かった。メディコも寒さにやられてしまったらしい。
「先におりて待ってるからー。」メディコと一緒に一足先に車にもどる。いや、ちょっと寒すぎた。何度くらいなんだろうか。日が落ちて、谷の温度がぐっと下がってきた。手がなかなか温まらない。みんなもぞろぞろと帰ってきた。ボスがエンジンをかける、出発しようとしたら、ガンガンって感じで大きく車体がゆれた。ハンドルはきかない、なんだ??
「しまった、ハンドブレーキだ。」ボスがつぶやく。そうなのだ、この地域は日が落ちたらすぐにもうマイナスまで気温が下がる。ハンドブレーキが、短時間の間に凍ってしまったのだ。どうするの?
「よっしゃ、工具があったね、バーナーと、ロープと、これも出して。」男性陣はまったく動じない。さすがMSFロジスティシャンチームである。この手のことはお手のものなのだ。かなりしっかり凍り付いてしまっていたらしく、少し時間がかかったが、なんとかハンドブレーキも外れて、出発できることになった。すごい、こういうサバイバル能力見習いたい。
「えー、諸君、このように気温が下がる地域では、車を止めた時に絶対にハンドブレーキを引かないこと!石を車輪の下に置いたりして、ハンドブレーキの変わりにすること。でないと、今回みたいに凍るからね。」
「了解!」テンションも高く、私達はゲストハウスに向かう。この人たち、ほんとに根っからの冒険好きなんだわ。総勢9名あやうく凍えるところだったのに、こう言うの好きなのよね。
バーミヤンチームのフィルコが「もうちょっと遅かったら探しに行こうとおもっていたよ。なに?ハンドブレーキ凍ったの?」って少しびっくりしていた。
「ロジがカッコ良かったんだよー、私達は中で見ていただけだったけど。」ちょっとした冒険の気分だった。
バーミヤンチームの人達がシチューを作ってくれたみたい。素敵。外はすっかり暗くなっていた。雪の残る中庭にオイルランプが灯る。きれい。外に出ると星がとてもきれいに見えた。ほんの数分で頬にちくちくした痛みがさす。マイナス何度くらいかな。寒空に、しみじみ家があることがありがたい。凍えている人もいるのだ。
明日はカブールに戻る。きれいな空気も吸い収め。また、埃まみれの日常が始まる。
(12)アフガニスタンの恋愛事情(その1)
「ねえ、たまき、人は誰かとの恋に破れたとして、また誰かを愛したり、立ち直ったりできるものかな。」
クリニックで、月末の統計処理の仕事をしていた時のことだ。いつになくまじめな顔でレイリーが聞いてきた。なあに、急に。そうねえ、私もちょっと前は付き合っていた人もいたけどねえ。結婚すると自分でも思っていたけど、結局別れちゃったしなあ。あ、でもいろいろやりたいことがあったし、でも立ち直っちゃったよ(笑) だんだん強くなってきちゃった。失恋しても、そうねえ、また誰かを好きになるよ。多分、いまはないけどね。なあに?誰か好きな人でもいるの?レイリーは堅ーい表情のままだ。
「私には、ハートはひとつしかないわ。一度壊れたらもとに戻らない。だから、恋に破れたり愛を失ったりしたら、絶対立ち直れない!!」
ふえー、そうかあ、私も誰かを好きになっているときはそんな風に思うんだろうけどね。そうねえ、確かに失恋するときは辛かったけど、女って強いんだよ。私だっていい人いないかなーっていつも思っているし(笑) ほんとうにそうなの?といいたげな表情でレイリーは真剣に話を聞いている。そりゃこの年だもん、恋愛の経験くらいあるけどさ。失恋したときは辛いけど、わたしそのたびに立ち上がってきてしまいましたよ。
「アフガニスタンでは恋愛って簡単じゃないのよ。」彼女は言う。「例えば誰かを好きになるとするでしょ。それで、もしその人と結婚できなかったとするでしょ、そしたらそれだけでうわさが立って、次に誰かと結婚するって言うのも難しくなるんだから。」
え、それって肉体関係がないような関係でも、悪い噂が立つわけ?「当然よ。アフガニスタンの人はものすごくストイックなんだから。男とうわさになるような女って、それだけですごい陰口たたかれるんだから。」
ふーん。でも恋愛しなきゃ結婚もできないじゃないか。「アフガニスタンでは、気にいった子がいたら、とにかくすぐにプロポーズなのよ。だから、婚約して、それから相手を良く知っていくって言う感じかな。」
そうそう、そのプロポーズもいろいろで、直接男性からする場合もあるが、女兄弟がいる場合、要するに姉か妹が女性に聞くと言うことが結構一般的だと言うことだった。女兄弟がいないときは、自分の母親に頼むのだと言う。私だったら、お母様からそんな話しされたら引くなあ・・。まあ、アフガニスタンと日本では違うもんねえ。それはさておき、このプロポーズって言うのは、お互いあまり知らなくても突然去れちゃうということね。
「そう言うこと。今はもちろん自由に恋愛する人もいるだろうけど、結婚も考えずにただ誰かと付き合うなんてスタイルはアフガニスタンにはないのよ。」
なるほどね。所で女性は自分からプロポーズとかできるわけ?「できるわけないよー。女は待つだけなんだから。女性からプロポーズなんて聞いたことないわよ。男性も結婚するにはものすごくお金がいるのよ。アフガニスタンでは結婚式にものすごくお金をかけるでしょう。招待した人達全員分の食事、花嫁に買う宝石やドレス、生活にかかるすべての物を工面できるようになるまで結婚できないんだから。」
それってすごいよね。じゃあ、若い人は結婚なんてできないね。「若くても、家がお金持ちとかで結婚式をできる人は結婚できるよ。」
ふーん、じゃあ、式をやらない結婚とかってないの?「家畜じゃあるまいし。そんな簡単に娘をやる親なんていないわよ。」
いや、まあリッチな人達に限ってなんじゃないの?「お金持ちじゃなくても、ちゃんとした結婚式をするものよ。だからお金のない人は借金をしてでも結婚式をするんだから。」
そうなんだ、借金ってすごいね。日本ではできる範囲での結婚式だな。あまり聞かないよ、借金してまで結婚式なんて。
「ばかばかしいって思うかも知れないけど、そう言う風なのよね。」そうなんだ。集計の手がすっかり止まってしまっている(笑) これはもうちょとお付き合いするか。
話はこうだ、彼女の同僚が、彼女のことを好きになり「愛している、君の気持ちを聞かせてほしい。」
といってきているのだ。実は私の良く知っている人だった。若いけどしっかりしていて、いつも明るくかわいい人だったので、私は一人で盛り上がって
「いいじゃん、OKじゃん!」なんて言っていたんだけど、彼女は非常に慎重だった。前述のように、アフガニスタンでは体裁をものすごく気にする。結婚前の娘がお互い好き同士であれ、男の子とうわさになるなんてもってのほかなのだ。
アフガニスタンの娘を持つ親は大変だなあと思った出来事がある。夜勤をしたときのことだ。レイリーのお母さんは、夜連絡をとろうと電話をしたらしいが、電波が届かず繋がらなかった。それでも10回以上電話をかけ、ついに朝5時フィルコに電話をしてきたのだ。フィルコからラジオで連絡を受け
「なにか緊急の用事らしいわよ。」ということだったので、レイリーを車にのせ、電波の届くところまで行って電話をしてもらった。すると、ただ単に
「電話が通じなかったから、心配で。」と言うものだった。夜外出を許すというのは、アフガニスタンではかなり勇気の要ることらしい。娘の身に何かあったらというのはわかるが、緊急事態だと思っていた私達は心底がくっときたものだ。
「うちの母親はものすごく心配性なのよね。勤務時間が4時に終わるでしょ、その後まっすぐ家に帰らないと必ず電話が入るわよ。」とのことだった。
「娘が変な男に引っかからないかって、いつも心配してるわよ。お見合いの話もいくつか来るし、結婚の申し込みも、何度か来たけど、私が好きになれないの。」
レイリーは意思表示のしっかりした子だし、簡単に男の人の誘惑に乗るようなタイプじゃないから心配ないと思うんだけどなあ。結婚するまでは、とにかく娘を傷物にしてはいけないと言うんで、ぴりぴりするのだそうだ。両親は早く娘に結婚してほしいと思っているそうだ。そんな両親だから、結婚を申し込まれたわけでもなければ、彼女も簡単に好きな男の子の好意を受け止めることにもためらっているのだった。好きだと意思表示したところで、もし彼と結婚できなかったら・・・。と言うのが理由だった。
「頭では、彼の好意を受け入れたらきっと傷つくんじゃないかって、しり込みしているの。」
というけど、じゃあ、心はどうなのときいた。「心は、彼に私も愛していると伝えたい。」
じゃあ、それに正直で良いんじゃないのかな。アフガニスタンにもいろんな恋の形があってもいいんじゃないのかな。こうしないといけないっていうのはないけど、お互いに好きでずっと良い友達としてよく理解しあっている仲なんだから、私は彼を信用していいんじゃないかと思うけどね。彼女の純粋な悩みを聞きながら、自分がずいぶん前の日本にタイムスリップしたんじゃないかという感覚にとらわれていた。私達の社会のほうが恋愛に関する障害は格段に少ないんだけど。でも、簡単になりすぎている感もあるんだよね。レイリーのこんな初々しい悩み事の相談を受けながら、なんかいいなあってほのぼのとしてしまった。こんな清らかな悩みを聞かされると、自分がいかに汚れているかってわかっちゃうわ(笑)
「たまきは彼の言うこと、無責任じゃないと思う?真剣に考えているって思う?」
そうだね、アフガンの女性に愛を告白しているわけだから、中途半端な思いでは言えないでしょうな。
「そっか、考えてみる。」アフガニスタンの女性にとって、恋愛は一世一代の出来事って感じなんだな。
次の日、レイリーは晴れ晴れとしていた。「心に素直にすることにしたの。」
彼女は彼の心を受け取ることにしたのだ。よかったじゃーん。うふふふ。二人して怪しく笑いあった。なんだか自分のことのようにうれしかった。うまく行くといいな。
それにしても、それからしばらくの間、彼女も彼も舞い上がっちゃって、仕事中でも電話がちょこちょこかかってくる始末。もう、あんまり押さえつけられていると、その反動が大きいのよね、きっと。あんまり彼が彼女を独占するもんだから、携帯を借りて彼に一言
「ちょっと、仕事中は私のレイリーなんだから、とらないでくれる?」彼は電話口で笑い、彼女もニコニコして聞いている。幸せそうだから、まあ、よしとするか。しばらくはね。
(13)アフガニスタンの恋愛事情(その2)
彼女のため息が増えている。今日はどうもずっとこの調子らしい。携帯をちょこちょこチェックしているが、またポケットに戻しつつ、表情はさらに暗くなる。この子は本当にわかりやすいなあと思わず苦笑いする。
「なあに、今日はどうしちゃったの?彼から連絡がないのかな?」彼は新しい仕事を見つけ、最近MSFから離れたのだ。新しい仕事は大使館の人事担当と言うことで、忙しくなかなか自由に連絡を取る暇もないようだった。
「そう言えばさ、彼も交えて食事会でもしたいよね。私ももうすぐ任期終了するし、帰る前に二人をレストランにでも招待したいなあ。」
実際そうでもしないと、おおっぴらに2人が会える機会がないのだ。二人きりって言うのはまず難しい。するとレイリーの表情がぱっと明るくなる。本当に単純。
「そうか、聞いてみるね。たまきが一緒だったらいいよね。うちの親にもたまきのお別れパーティーするって言えるもの。」
そうだそうだ、と言う感じで彼女はすっかり元気になり、早速作戦を練り始めた。彼に何度もオフィスに遊びに来たらと聞いたが、何度も遊びに行ったら、みんなが変に思うといって聞かない。相変わらず2人は関係を隠すのに必死で、仕事の忙しさもあり、なかなか2人で会う時間を見つけるのは難しかった。そう言うわけで、今回私がひと肌脱ぐことになったのだ。私が一緒なら、レイリーのご両親も心配しないだろうと言うのが大きな理由。出かけるのに、口実を見つけるのも本当に一苦労なのだ。家にいたって、毎日部屋にこもって彼と1時間も電話してたら、ばれそうなものだけどなあ。
今回は彼の知っているレストランで食事をしようと言うことになった。シャリナウパークの近くの、パークサイドレストランというところ。あまりはやっている感じはないけれど、とりあえず、知っている人にあまり会いそうにないので、と言う理由でそこで待ち合わせすることになった。彼女の希望で、私の同僚カリンを誘うことになった。
「彼女口が堅いから。信頼できる。」と言うことで。私も一人じゃ心細かったので助かった。しかし、彼女と彼の関係を説明するのが面度くさかったので、
「一緒にご飯食べにいかない?」と簡単に誘った。他にも外国人メンバーはいるのだが、「信用できない。」という理由で却下。代わりに「信用できる人」として、私達選ばれたって訳だ(笑)
彼女はこの日のために、上着を一着新調し、ウキウキだった。家まで迎えに行くと、いつになく化粧に気合の入った彼女が出てきた。
「いやーん、きれいだねえ。その赤い服よくにあってるー。」誉めると彼女は照れくさそうに
「会うの一週間ぶりなんだもん。」とはにかんだ。「ちょと、たまき、うちの両親にチラッと顔出してよ。心配してるから。」
門を少し入り、車椅子に乗ったお父様と、一緒に付き添っているお母様にご挨拶をする。私の姿をみて、ほっとしたようだ。にっこりお辞儀をして
「ちょっと出かけてきます。」と門を出る。「今日はたまきの誕生日パーティーだからね。」
彼女がウインクする。ははーん、なるほどね。私の誕生日はもうちょっと後なのだ。
「口実いろいろ大変ねえ。」「誕生日パーティーだもの、きれいにしなくちゃでしょ。」
気合が入りまくっているこの格好にも、いろいろと口実が必要なのだ。カリンは2人の関係を知らないから、ただ単純に、お洒落してきたなあ位に思っていただろう。
「私ね、今日生まれて初めて両親にうそをついたの。今まで、両親に隠し事をしたことはなかったの。でも、今日はほら、たまきのバースデーね。」
なんだかうらやましいような、ほほえましい感じだ。「ねえ、私うそをついても良かったのかあ。」
彼女が聞いてくる。ご両親が心配するなら、良いんじゃないのかな。大人になったって事よね。いつまでも子供ではいられないよね。大丈夫よ、神様も許してくれるでしょう。
「だと、良いけど。」彼女は26歳だ。この年で、こんな風にされるとあまりの純情さに本当にかわいくなってしまうわ。いつも思うけど、この子のこういう素直なところが、すごく好きだ。
レストランは、何風とは言いにくいあまり特徴のない感じのつくりだったが、奥の部屋があるあたり、なんとなくアフガンレストランっぽかった。アフガニスタンのレストランには、女性専用の部屋があって、女性がいるとそちらに通されることが多い。アフガンレストランは主にそのようなスタイルになっているが、他国料理レストランでも、アフガン人が多く来るようなところには、必ず別室が準備されている。普通のアフガンレストランに行くと、昼間なのに通りに面した窓には、暑いカーテンが引かれていて、外からは食べているところが見えないようになっているのだ。とりあえず、テーブルに着く。レイリーはそわそわと落ち着かない様子だ。窓際をチェックして、開いているカーテンを閉めるなどして、誰か知っている人に見られないかと、落ち着かない。
それほど時間はかからずして、彼がやってきた。私も会うのは久しぶりだ。いつもはおちゃらけている彼も、今日はいつになく緊張した感じだ。「久しぶり、元気だった?」挨拶を交わし、皆席についた。
食事をしながら、ゆっくり2人の時間を楽しんでもらいましょということで、アフガン料理なのか、中華なのか良くわからないメニューを見ながら、適当に選んだ。久しぶりにゆっくり話ができる二人は、みつめあって
「胸が一杯」と言う感じ。さすがにカリンも「ねえ、あの2人っていい仲だったの?」と、気がついた。そう言うことだから、ひとしきり会話をした後は、2人の世界で楽しく話しをしてもらっていた。はじめは、私達に気を使って英語で話していたが、すぐダリー語での話になっていた。胸が一杯でご飯が食べられない二人に代わって、私とカリンはひたすら食べまくっていた(笑) アツアツの2人と、寂しい30女2人。これ、すごい図だな(笑)
「いいねー、なんか私達も寂しくなっちゃうね。恋人がほしいなあ・・。」なんて。
とにかく、久しぶりに会えて、二人も幸せそうだった。レストランでは、私が招待したのでお金を払い、レイリーを家まで送り届けた。
「彼がね、君とこんな風に会えるなんて夢みたいだって、ずっと言ってたよ。たまきに感謝しないとって。」
ほんとにねえ、ほんとに感謝してもらわなくっちゃだわ。それにしても、こんな風に出かけることができて、この時はものすごくラッキーだった。戦争中はもっとセキュリティと言う面では厳しいのだろうが、今はまだレストランに行くこともできるのだ。同じMSFでも、活動を取り巻く環境には大きな差があるように思えた。貧富の差も激しい。生活水準の格差はなかなか埋まらないだろう。レストランに行く人もいれば、その前で物乞いをして、生計を立てている人もいるのだ。どうしてもそういう場面に出くわすと、非常に罪悪感にさいなまれる。自分はこんなに恵まれていて、いいのだろうかと思う。彼女の恋に協力できるのはすごくうれしいけど、なんだかいろいろなことを感じることにもなった。
次の日、彼女は笑いながら「彼がね、たまきにご馳走になったのに、お礼もいうの忘れたって言ってたよ。」
と教えてくれた。「そりゃね、彼の目にはあなたしか映ってなかったのよね、ほんとに。」
といやみっぽく返した。「2人でゆっくり話せてうれしかった。また一緒にご飯食べに行こうよ、いつがいい?」ってニコニコで聞いてくるもんだから
「えー、もう勘弁してよ。わたしとカリンと、どんな思いで見てたと思ってるのー?次は2人で行ってよね。」
「だめだめ、次はカリンの誕生日パーティーにするんだから。」だって。もお、勝手にしてくれえ(笑) 彼女の恋愛は、外国人スタッフの協力のもとに成り立っているのでした。
(14)半年の間に
アフガニスタンに来て、半年、毎日の生活の中では目に見える変化というのは感じにくいんだけど、確かにいろいろなことが少しずつ変わってきたように思う。
道沿いにたくさんの新しい建物が建った。冬は寒さで、コンクリートなどがひび割れてしまうので工事に向かない季節なのだが、春になって一気に工事が増えた。壊れた建物の復旧と言うよりは、何もないところに新しいビルがどんどん建っていく感じ。
病院がかなり変わってきた。はじめは、DBと比べてあまりの汚さにびっくり仰天したのだが、NGOやWHOがサポートに入り、日本のJICAも手伝って、かなり病院の環境は改善された。家族の付き添いを廃止し、面会時間を設けたことで、病院内の生活が保たれやすくなったようだ。開けっぴろげになっていた診察室にちゃんとカーテンがついて、患者のプライバシーにまで配慮するようになったのは、大きな変化だと思う。患者がまるでもののように扱われていたのに比べるとえらい違いだ。
交通渋滞と大気汚染の対策なのかどうなのかわからないけど、日本から寄付されたきれいなバスが走り始めた。 あちらこちらに見える、青いバス停の標識。日本の旗はつけなくても言いと思ったけど、とにかくどこの国も、それをしたのが自分の国だというアピールをしていて、なんだか良くわかんないけど、どうでも良いことのような気がする。
「日本ってお金があるんだね。」なんてちょっといやみっぽく言われたりして。交通渋滞の緩和になったかどうかはわからないけど、今にも壊れそうなバスに、満員以上の人が乗っていくようなことは減ってきたから、安全の面では効果があったのかなと思う。
いろいろと復興が進んでいるかのように見えるのだが、人々の生活自体はあまり変化はないようだった。ただ、選挙が近づくにつれて、街を走る戦車の数は増加し、セキュリティチェックが厳しくなっていた。空港での出国手続きも、はじめに着たときと、休暇に出たときと、フランスに帰るとき、では手続きの仕方が変わっていた。
細かいことはいろいろ変わっているけど、大まかにはあまり変わっていないって事かな。そう言えばおかしかったのは、私がトルコから帰ってきたときに、信号機が復活していたこと!が、しかし誰も守っちゃいないの。うちのドライバーさんが赤い標識に気がついて、止まったら、
「こいこい。」と警察は手招きする。あれ、信号が赤やでーと指差すと「あー、そっかそっか。」と笑っていた。警察も信号のこと忘れていたのだ。
「おいおいー、大丈夫かよー。」なんてみんなで突っ込みをいれたものだ。物が作られれば、それは単純に復興が進んでいると見られるから楽だろうが、実際復興のペースがどうとか全くわからない。言えるのは、人々の生活は大して変わっていないということなのだ。カブールと周辺地域の生活の差はだんだんと大きくなるばかりだ。カブールの市内にいると、本当になんでも見つかる。最近では携帯ショップがかなり拡大してきて、日本でも見たことがないような小さなサイズの携帯電話が、富裕層を中心に売れている。1台買うのに100ドル以上するのに、売れているんだからすごい。こちらの携帯電話はすべてがプリペイド式の携帯電話である。仕事で必要な人もいるだろうが、普通にいつでもお話ができるから持っている人も少なくなかった。うちのオフィスではコーディネーション以外携帯は持っていなかったのに、働いているスタッフはみんな携帯を持っていた。しかも、会議中に電源を切るというマナーはないものだから、会議中でも平気で席を立つ。話し合い中でも、話を中断して電話に出てしまう。オフィスでスタッフ全員集めて話し合いをしたときに、新しく来ていたアドミが
「携帯電話には電源ボタンがあるのを知ってるか。ここを押すだけで電源は切れる。会議中は電源を切るように。」
とすごくいやみっぽく言って、大ヒンシュクをかったことがあったが、あまりのマナーの悪さには私もびっくりしていた。大病院に行っても、話し合い中にディレクターの携帯が鳴ってそのまま話が中断と言うこともあった。
あとは、電化製品。テレビは裕福な人のいわばステータスで、しかもアフガニスタンには国営放送一局しかないので、衛星テレビをつけるというのがはやりだ。あるスタッフの家に招待されたときに、大きなテレビのある部屋に通されて
「テレビを見ますか?」と点けられたときはびっくりした。お客さんのいるときにテレビつけなくても、と思うけど、テレビを見せると言うのは、ものすごく贅沢なおもてなしの方法なんだと知った。普通の人は衛星テレビなんて買えないもの。日本の戦後、電化製品が出始めたころに、近所のテレビを持っている人の所に見に行っていたというのと同じようなものだ。だから、彼は自慢げだったんだな。電気は夜中には消えちゃうし、昼間は使えない。電気さえ使えない地域があるのと比べると、富裕層の生活は格段に違う。同じアフガニスタンにいて、同じアフガン人とは思えない。この先発展とか復興とかいう形で豊かになる生活と言うのは、消してテレビを見れる生活にあるとは思えないんだけど。DVDやCDもたくさん店に入荷されるようになり、お店も増えた。ほとんどがパキスタンからのものだった。
私がアフガンに着いた時は、ロヤジルガが開催され、セキュリティの問題から学校は休校になっていたが、6月の選挙は延期になったと発表され、3月から学校も再開され、子供達の元気な声を聞くようになった。どこに行っても学生たちは積極的に話し掛けてくる。一人でこっそりオフィスの裏のバザールに文房具を買いに行ったときも、小学生くらいの女の子達が、きゃっきゃと英語で話し掛けてきた。カブールでは学校によっては小学校くらいの年齢から英語の授業があって、ちゃんと話ができるんだからおどろく。子供達は学校で学べることがとてもうれしいようだった。
アフガニスタンの足元は、まだ安定していない。カブールでは一応に保たれているように見える安全も、いつ崩れるかも知れない。最低限人々が生命の危険にさらされないように、安定して今後発展していけると良いけれど。戦車がガンガン走って、銃をもって見張っている平和というのは、非常に危ういものなのだ。
(15)ピクニック
春になったらピクニックに行こう!とアフガンスタッフはいつも言っていた。
「去年はたくさんピクニックに行ったんだよ、夏は川のあるところでみんなで水遊びもしたし、すごく楽しかったよ。」
と聞いていたので、私も早く春にならないかナーと思っていた。しかし、そんなのんきなことを言っていられる状況でもなくなってきていて、どうもあちこちで事件が起きていて、ピクニックに関してもなかなかOKが出なかった。5月になってやっとピクニックに行こう!と言うことになり、オフィスから40分くらいの湖の近くに行くことになった。
ここのスタッフは十年選手もいるくらい、ベテランさんぞろいなんだけど、このピクニックの準備も本当にあまりの手際の良さに目を見張った。 料理用の水をコンテナーで準備して、食事係は早めに現地入りして、食事の準備。ビニルシートにマットレス。とにかく準備がいいのだ。余裕のあるミッションだからできるんだろうなと思うけど、これはほんとうにオフィスのみんなが楽しめるイベントなのだ。残念なことに女性スタッフは家の用事やら学校やらで参加できなかったけど、ほかのスタッフはみんな参加で楽しく過ごすことができた。
湖といっても、なにやら貯水池のような感じの所だ。一応遊覧船みたいなものがあって、他にもピクニックに来ていた家族が乗っていた。ここ数年の雨の少なさで、湖の水位は以前の半分くらいになっているんじゃないかという話しだった。どこに行っても水不足の兆候を目にする。
ご飯を食べているときに「バーン」とどこかで爆発する音がして、驚いていたけど「多分地雷撤去しているんだよ。」とスタッフは言っていた。当たり前の話しだけど、どこにいても緊張を強いられるのは厳しいものだ。それでもアフガンの人達は楽しみを見つけていくんだから、本当にすごいと思う。食事のあと、ある人達は賭けトランプに興じ、またある人達はピンポン玉でバトミントン(?)をし、別のグループはバレーボールで遊び、またある人たちは大きな石をどこまで飛ばせるかというかなり原始的なゲームに夢中になり、そして、私とカリンはおなか一杯でお昼寝する、というそれぞれの楽しい昼下がりを過ごしたのでした。
(16)ストリートの子供達
買い物に出ると、チキンストリートはいつも外国人ボランティアでにぎわっていた。絨毯屋に、アメリカで起きた同時多発テロをモチーフにした絨毯が織られてあって、唖然とした。それが、自分達の国の空爆につながったのに、絨毯に織って、アメリカの旗を織り込んであるのだ。どう言う気持ちでこれを作ったんだろう。同時多発テロに賛同している人なのか、忘れてはいけない出来事としてなのか、大して意味はないのか、なんだか複雑な思いでその絨毯を眺めた。買う人なんているのかしら。こんなの喜んで買う人がいたらそれこそ恐ろしいことのような気がする。
チキンストリートにはたくさんのストリートチルドレンもいる。外国人と見るや必ずわっと集まって何かを売ろうとする。なかには何も売らずにお金をせびる子供もいる。私はあの辺りの通りが好きじゃない。良心の呵責にさいなまれる場所だから。お金があるだろうと思われて、しつこくついて回られるのもたまらないし、お金をただ上げるなんてしていたら、きりがないし、それが良いことなのかどうなのかもわからないから。子供達は慣れたもので、必ず新聞とかアフガニスタンについて書かれた本を持っている。外国人が買いそうなものをいつも売り歩いている。雑誌とか何度か行くと毎回同じ子供にであう。私がはじめて本を買った男の子は、そのあと私を見かけるたびに
「マダム!」と声をかけ、「おれたち友達なんだぜ。」と他の子達に言いながら、肩を抱いてきた。
彼について詳しくは知らないが、こういったストリートチルドレンに新聞などを提供し、それを売って生活の足しにするのを助けているNGOがあって、そこから新聞を安く仕入れていると言うことだった。はじめに彼に会ったときは、普通の目がきらきらした子だった。なんどか出会うことはあったのだけど、4ヶ月くらい経ったときに久しぶりに出会って驚いた。以前はかぶっていなかった野球帽をかぶっていた。あれ、と思って良く観ると髪の毛がごっそりと抜けていたのだ。ストレス?栄養失調?
「ねえ、ちゃんと食べてる?頭どうしたの?」「なんでもないよ、気にしないで。それより、本買ってよ。今日のご飯買う金がないんだ。」
よくよく見ると、目は血走っている。「そうね、新聞ある?本はほとんど持っているから。」「あるよ、じゃ、これ。50アフガニーね。」
50アフガニーは薄っぺらい新聞には安くないけど、いつも同じ様に買う。彼はこんな生活を長く続けていて、なんだか体も疲れているようだったし、時々話すときの興奮した様子から、なにかヤクでも使っているのかしらと思うこともあった。同僚がDVDを買うのに付き合って、店に入ってなんとなくボーっと観ていたら、ひさみさんが
「ちょとたまき、あれみてよ。あの子何してんの?」と店の外で待っている彼を見ていった。彼は手をズボンの中に入れて、こっちを見ながら股間を触っていたのだ。目つきが怪しい。彼の年齢は14・15歳くらいかなと思う。目があうと、べーっと舌を出して奇声を上げていた。
アフガニスタンにも、ヤクってあるらしいけど、彼もやっているんだろうか。詳しくは知らない。でも、薬におぼれて働かなくなった夫を抱えた女性に会ったことがある。ストリートの子供達はこうした誘惑にいつもさらされている。安定しない生活、収入、大人だって憂鬱になるような世の中で、自分達に十分な愛情を与える余裕のない両親に育てられていたり、親がいなかったりして、厳しい生活にさらされている子供がたくさんいる。胸が痛む。自分は本当に無力で、全部を助けるなんてできない。でも時々多くの人を助けることができるクリニックの仕事と、一人の人を助ける仕事に違いがあるのかと思う。同じくらい大切なんじゃないかと思う。彼のことが心配でも何もできなのだ。彼だけじゃない、本当に多くの子供が生活のために、ストリートに出る。ぼろぼろの服を着て、道路に横たわっている子供もいる。
そんな子供達を狙った誘拐事件も多発していた。5月ごろ子供の誘拐事件が何件か起こっていた。DB近くで発見された子供の死体の目玉がくりぬかれていたという話もあった。恐ろしい話、こういう子供達を誘拐し、臓器の密売を行っている組織があるのではという話だった。子供は保護され、大切にされるべき存在だと思うけど、ここではそうはいかないのだ。すべてがNGOの活動に頼っていて、その活動にも限りがある。子供のためのNGOで働いている女性スタッフが
「アフガニスタンの子供の置かれている状況は最悪よ。」といった。
「戦争で多くの女性が夫を失った。その後仕事があるわけでも、援助があるわけでもない。道に出て物乞いをする気力があれが良いほうで、本当に多くの女性が生きる気力を失っている。そんな母親が子供に十分な愛情を注げるはずもなく、子供は家庭においても無関心の犠牲になる。道に出て物乞いをすれば、警察官に殴られることもしばしは。絨毯織りの仕事は、休みなく長時間にわたって強要されて肩や腰の痛みを訴える子供が多い。暴力を振るわれても、それを罰する社会的風潮はないから、そのまま。本当に子供達は、この社会の犠牲者になっている。いろいろなシステムや国の建て直しが行われている中で、子供の権利に関することが一番後回しにされている。」と、憤慨していた。
日本でも幼児の虐待などニュースで目にするが、アフガニスタンではニュースにもならない。そこまで無視された状況なのだ。ストリートで会う子供達とは反対に、学校に通っている子供達の生き生きとしていること。
いろいろな状況の子供達を見た。ストリートの子供、裕福な家庭の子供、難民の子供、農村に住む子供。それぞれおかれた状況は違うが、みんながこれからアフガニスタンの将来を担う存在になっていくのだ。厳しい状況におかれながらも、交わす会話の中で、彼らは希望を失っていないことに安堵する。あるNGOの施設で、勉強をしていた男の子は
「将来はお金を稼いでお母さんを楽させてあげる。」と笑顔で答えてくれた。
(17)アフガニスタンを去る日
私の任期終了の日が迫ってきた。終わるとなれば半年と言う任期は本当に短い。ミッションを終えたらさらっと帰っていくものだと思っていたが、ここではそうはいかず、必ずみんなを招いてパーティーをしなければならなかった。なんでも、このチームのやり方なんだそうだが、ボランティア自身がお金を出して他のスタッフを招待すると言う感じだ。私の前に帰ったフィルコが、みんなに何も知らせずに帰ってしまったというのがあったので、私はずいぶん前から
「たまき、絶対にお別れパーティー開いてくれなきゃだめよ。」と、釘を刺されていた。誰かがその地を去るときは、旅の安全とこれからの人生の成功を祈りたいと言う。私はみんなに、一人一人にお礼を言いたかったのもあり、みんなに事前にパーティーを開くよと伝えていた。
いろいろあったが、こんなに恵まれた環境で仕事をするとは思っていなかったので、拍子抜けした部分もあるといっていい。 他のミッションのビデオを見たりして、自分達の生活自体も、ものすごく過酷になることを覚悟していたので、発電機で電気が使えるとか、水がちゃんと出るとか、そう言う基本的な部分で不便を感じなかったところに恵まれているなあと感じたものだ。休みに買い物に行くとか、カブールではないものはない位の状況で、自分の思っていたよりもずいぶん優雅な生活だなと思ったのも事実だ。そういう生活環境が、逆に心苦しく思えたりしたものだ。それに十年以上にわたって、援助を続けているので、プロジェクトを運営するという仕事に関して、アフガンスタッフが十分に育っていたというのがあるだろう。MSFのやり方を覚え十年間MSFで働いていると言う人がとても多かったのだ。保健省でも、以前MSFで働いていたドクターが責任のある立場で働いていた。私なんていなくってもなあと思うことも何度かあったが、国として安定していないので、MSFもその地を去れないという感じだった。
他のミッションと比べるのは難しいが、アフガニスタンで一番難しいのは、政権が安定しておらず、せっかく築き上げたものが1夜で破壊されうるということではないかと思う。いろいろな省庁や、他のNGOとのミーティング。自分達だけで、かってに動けない状況というのも、恐らくはかなり違っていた点だったのではないかと思われる。いろいろなことに巻きこまれてNGOは働いているんだと言うことを学ぶことができて、ラッキーだった。
今回私は、本当にたくさんのことを学ばせてもらった。パーティーで「たまきはアフガンスタッフの気持ちを理解し、ともに働いてくれた。」といわれたが、どのくらい理解できたかわからない。ただ、自分の世界だけを押し付けないコミュニケーションと言うものを学んだと思う。自分達の持っているものだけが正しいと思うのは、危険だということも感じた。話し合いをする中で、本当に必要なものが見えてくるし、現場からも良い意見が出てくるのだ。それにちゃんと耳を傾けて、
「それ、ナイスアイデアだねえ。」ってやっていくのが、普通のやり方なんだよなあと思った。私達は、短期間で派遣されたボランティアに過ぎない。時間がくれば帰っていく他所者である。それを受け入れて、その都度変わる方針にもついてきていた現地のスタッフに、本当に頭が下がる思いだ。彼らは本当に懐の広い人たちなんだ。
ここで得たものは、出会い。いろんな人に出会えたことが一番大きかった。同じボランティアでも、みな違うポリシーを持っていたし、ぶつかることもあった。でも、毎日生活をともにし、語り合う中で築いていった信頼関係は大きい。
アフガニスタンの人々は、あんなに厳しい環境に置かれていても、まだ旅人をもてなすことを忘れなかった。 何度もお茶に呼ばれたこと、ここに座れと椅子を譲ってくれたこと、ここで活動してくれて本当にありがとうといってくれたこと、あまりにもおしゃれに無頓着だからと口紅をくれたこと、すべてが私を励ましてくれた。
「たまきはまた、ちゃんとアフガニスタンに戻って来るんだよ。仕事でも、旅行でも。」
「いい人を見つけて、早く結婚するんだよ。」「絶対に忘れないで。」そんな暖かい言葉に包まれて、本当にまた戻ってきますから、と心の底から思った。この経験は本当に貴重なもので、私がここで終わらせてしまったら、それこそただの自己満足なんだろう。何かの形でアフガニスタンに関わっていきたい。それは、私がたくさん与えてもらった事へのお返しなのだ。
続ける事は難しい。でも、続けていきたい。アフガニスタンで、いろいろな国のNGOを見てきた。国連の組織も見てきた。そのどれも、組織が大きくなればなるほど、実態が見えなくなっていくように感じた。自分は多分、ずっと現場で現地の人と行動をともにする仕事をしていくだろうと思う。デスクにいて、フィールドからの報告を聞いてプロジェクトを組み立てていくと言う仕事は私には向いていない。立てた計画を遂行するのに、どれだけ現地のスタッフと話し合いをしていかないといけないか、身をもって体験した。大変な仕事だったが、そういう仕事が本当に楽しかった。今回の仕事は、私にとって初めての海外での仕事だったけれど、、いろいろな課題を私に与えてくれた。医療者として、指導をすることとその評価方法、実際に医療にかかることができずにいる人達への援助、本当にそこで何が必要なのか見極める能力、などである。今回の活動のフィードバックをしないと次に続いていかないだろう。楽しかったで、終わってしまっては、あまりに表面的で、そのまま次にまた出かけて行くことには不安を覚えるのである。
第4章|(1)〜(10)|(11)〜(17)|
トップページへ
|
|