アフガニスタンボランティア −国境なき医師団助産師の6ヶ月−

波多野 環

<第4章 アフガニスタンライフ>

(1)アフガニスタンの朝の挨拶は長い

   アフガニスタンの朝の挨拶は、長い。みんなそう感じると思うけど、とにかく長い。 「サラームアレイコム」から始まって「おはよう、げんき?調子はいい?幸せ?疲れていない?云々・・・・・(最終的に) 元気です、ありがとう。」で終わる。それが、会う人会う人繰り返されると言う具合である。これ、結構疲れます(笑) でも、これを怠っては行けません。礼儀を重んじる国です、アフガニスタン。挨拶もろくに交わさずに朝のミーティング 「ねえ、昨日のこの書類の件なんだけど。」なんてはじめちゃった日には、大変気まずい思いをします。そんなわけで、私も基本の挨拶は結構すぐに覚えた。なんていったって人間関係だからだ。始めはなんとなくうっとうしいと思っていた挨拶だけど、今となるとものすごく懐かしい。女性同士は、挨拶を交わしながらほっぺに3回キスをする。時々それ以上になることがある。うれしいときとか、久々に会ったときとか。確かスイスでも3回だったな。フランスでは大体2回だから、アフガン人が3回キスするから最後のキスのタイミングがあわなかったりしてた。スキンシップはあまりない国だと思ったから、はじめこのキスにはびっくりした。普通アフガニスタンの男性は女性と握手とかしないんだけど、長くMSFで働いているスタッフは外国人慣れしていて、普通に握手を交わしていた。なかに、すごくお調子者のロジスティシャンがいて、彼はいっつも 「たまーきーちゃーん、たまーきちゃん。」と歌いながら近づいてきて、しなくってもっても良いのにほっぺに必ずチューをするのだった。もお、絶対こんなのアフガンの挨拶じゃないぞ!ってチューされそうになると 「いやー、ひげが痛い!」ってにげていたけど、そのうち仕方ないから好きにしてって感じだった(笑)
   実は6ヶ月もアフガンにいたけど、私のダリー語はほんとに上達しなかった。途中講師を雇って、みんなでダリーレッスンを受けたから基本的な会話のセンテンスを覚えはしたものの、仕事は英語でやっていくから、どうしても楽なほうに流れてしまって。それに英語だって不自由しているような状態で、なかなかダリー語まで手が回らなかった。門番さんやクリーナーさんは英語を話す人が少なくて、あまりお話ができなかったのは残念だったけど、みんないつもにこやかに迎えてくれて本当に温かかった。独身の若い門番のアシュマット君に、マタニティでの診察で覚えた 「子供は何人ですか?」なんて聞いちゃっても、笑って「結婚していないので、子供はいません。」 と答えてくれたりして。その後、彼は面白がって「子供は何人ですか?」と聞いて来たりして、笑えた。こわい顔している人でも、みんな茶目っ気があって。
   私はアフガニスタンの挨拶が好きだ。毎日毎日同じ事を繰り返すことなんだけど、実は毎日同じ事を繰り返すことができる幸せを、かみしめているように思うから。日本にいたときには、こんなに毎日すべての人に密な挨拶をしていなかったな。挨拶は一日のウォーミングアップだ。今日も一日がんばろう。

(2)アフガニスタンの人はとにかくお茶

   こっちに来てから、お茶を飲む量が増えた。アフガニスタンの人はとにかくお茶を飲む。水はあまり飲まない。ボトルの水以外は衛生面で問題があるから、煮沸して飲めると言うのでお茶が多いのかなと思う。大体2種類、ブラックティーとグリーンティーだ。私がアフガニスタンに着いた時は冬だったから、お茶と言えばブラックだった。普通の紅茶みたいな感じ。でも強い味はしない。夏になるとグリーンティーが多いらしい。なんでか良くわからないけど、日本で言うところの麦茶みたいな感覚なのかな。暑い地域ではグリーンティーが多いみたいだ。香り付けのカルダモンをいれると本当に良いにおいがする。
   アフガニスタンで面白いなあと思ったことのひとつは、どこに行っても、誰に会っても 「チャイ メホリ? (お茶のむ?)」と聞かれることだ。なんだかちょっと日本みたいでしょう。いい感じ。アフガニスタンでは、お客さんにお茶どうですか?と聞かないのは失礼にあたるらしい。そして、お茶のむって聞かれてもはじめは一回断るのが流儀らしい(本当かな)レイリーがいってたんだから間違いないと思う!そう、で、それでも 「そんなこと言わずに是非!」と言われたら「そうですか?じゃあ」といってお茶をいただくんだそうだ。いや、これほんと日本人みたいだね。私は仕事柄病院に行くことも多くて、そこのドクターとか看護師長さんとお話することがよくあったのだけど、お茶するって結構大切。お茶しながら 「最近うちのクリニックから来た患者さんはどうですか?うちの助産師が搬送した例で、処置が悪かったのとかないですか?」 なんて話をして、病院との関係を良くするっていう。お茶を飲みながらって良いんですよ。はじめは 「時間がないから。」「他に行くところがあって。」と断ることが多かったんだけど、少しずつ慣れてきたら、ありがたく頂戴することにした。一つ釜の飯を食うって表現があるけど、これとおんなじくらいひとつポットのお茶を飲むって大事だねえってしみじみ思えたね。
   道端を歩いていても、手押し車のおじさん達が休憩しているところを通りかかっても、お店で買い物をしても、どこにいてもお茶を薦められる。うちが貧しくても、尋ねてきた人にお茶を必ず出してもてなしてくれる。アフガニスタンは、本当にもてなしの国だ。薦められたお茶は、ただのお茶じゃなくて心なんだなあとしみじみ思うようになった。
   で、毎日お茶ばかり飲んできたら、こないだ鏡を見てびっくりした。歯が茶色くなっていたのだ。これって歯磨きの宣伝でやってるステイン(しみ)ってやつ?ひゃー、ちょっと歯磨き真剣にやらなくっちゃだわ。お茶も飲みすぎに注意だな。

(3)アフガニスタンの食べ物事情

   アフガニスタンのご飯って想像つきますか?つかないよねえ。私はアフガン料理なんてまったく知らなかった。でも、一応くる前に「旅の指差し会話帳」って本でなんとなくアフガニスタンの食事について調べておいた。アフガニスタンの食べ物事情見た目あまりヘルシーじゃなさそうだった。で、実際ほんとうにヘルシーじゃなかった(笑) アフガニスタンの人のコレステロール値を計ってみたい!と思ったくらい。 基本の食べ物から説明すると、主食「ナン」だ。道端には必ずと言って良いほどこのナンのベーカリーがある。でっかい釜の中で壁に生地をぺんっと貼り付けて、あっという間に焼き上げるひらぺったいパンだ。これがなくてはアフガニスタンの食事は始まらないでしょう。で、他にお米も食べる。基本的にピラフのように羊の肉とにんじんとレーズンで炊き込んだ「カブリ」と言われる料理の仕方が多い。肉を加えないと「パラオ」と呼ばれる。あとは肉の煮込み系料理、ナスとトマトの炒め煮みたいな料理。アフガニスタンの食べ物事情 餃子みたいに肉の生地を小麦粉の生地で包んで蒸した「マントゥ」肉の代わりにニラを刻んだのを包んで、ひき肉のソースをかけた「オシャック」サラダはあまり出てこないんだけど、レストランでサラダというと、ただの玉ねぎのスライスとねぎを切ったのと、トマトのスライスとコリアンダーが出てくる。結構香菜が使われていて、においの強い野菜も生でそのまま食べていて驚いた。ニラって生で食べたことなかったからな。あとは良く出てくるといえば、意外にフライドポテトが多かった。あとは、フライドチキンとかも。なんかファーストフードって感じじゃない?そして、羊の肉をこれでもかって食べたのは、アフガニスタンに来てはじめてのことだった。
   知ってのとおりイスラム国家のアフガニスタンでは、豚は絶対食べないので、その代わりによく羊がでてくるのね。道端の肉屋さんのリアルなこと。今首を落とした、まだ皮もはいでいないような羊さんや牛さんがブラーンと。その下にはきれいにこっちを向いて並べてある羊の頭、頭、足、足。こないだは自転車の後ろに何か積んであるなーと思って見ていたら、切り落としたでっかい牛の頭だった。言ってみれば、自分達が生きるために殺して食べているっていう現実を、まざまざと見せ付けられている感じね。だけどこれでベジタリアンになろうなんて、かけらも思わなかったけど。
   それにしてもアフガニスタンにきて、出てくる料理がほとんどものすごく油っぽかったので、結構辛かった。健康食好きの私としては、海草とか、根菜とか、揚げ物以外の料理とか食べたいんだけど、日本食みたいな料理は到底期待できなかった。コックさん油と言えば、一般的に結構使われているのが、缶に入った固形の植物油。白っぽく固まったそれを、スプーンにこれでもかってすくって使っているのを見たら、なんかカロリーの高さが想像できてしまった。油つかわないと、料理した気分にならないみたいね、 マタニティではどうやら、昼の食事をコックさんが作ってくれていたんだけど、なかなか不思議な組み合わせで、ご飯と豆の煮たのとナン、というこれ全部炭水化物なんじゃないの?、ご飯にほうれん草の炒めたような煮たようなのをかけて食べたり(これもすごい油っぽいです)。しばらくしたら、慣れたけど、さすがにおなかを壊したりしているときは、とてもじゃないけど食べられなくて、ナンだけかじったりしていた。
   私達のゲストハウスにはコックさんとクリーナーさんがいて、毎日掃除と料理をやってもらっていたので、かなり楽させてもらった。コックさんは毎日一生懸命メニューを考えて作ってくれていたし、クリーナーさんも季節がかわるごとに私の机に違う布をかけてくれたりしていた。私はMSFのフランスセクションからの派遣だったので、ボランティアはやはりフランス人が多くて、コックさんもフランス人好みに食事を作っているようだった。手書きの、フランス人好みの料理をつづった料理メモを発見し、その「涙ぐましい努力」に感じ入ったものだ。(笑)
   中でもフィルコは、胡椒の入ったスープがどうしても食べられないらしくて、毎日毎日文句を言っていた。そのうちコックさんも味をどうしたらいいのかわからなくなって、水で薄まったようなおかしなスープになってしまっていた。 「彼はアイデンティティを失っちゃったね。」クリスとカリンと私はしみじみ気の毒に思ったものだ。 「食事はまず、アペリテフからはじめなくっちゃ。」なんて言われたって、ねえ。さっさと料理をあっためてしまったら 「たまき、アペリテフにはゆっくりお話をしながら時間をかけるものよ、30分はかけなくちゃ。」 って、やってられるか!といって怒りそうになっちゃったり。フランスではものすごく食事に時間かけるらしいね。アペリテフに始まり、デザートに終る。一緒に暮らすうちに慣れたけど、はじめはなんだか面倒くさかったものです。でも、慣れると結構良いんだけどね。ゆっくり話しながら食事するって、実は大切なことだけど、自分はおろそかにしてきたなあと思ったから。アフガニスタンでフランスや他の国の文化を学ぶって感じ。MSFフランスのミッションはフランス語を話されることが多くていらつくって聞いていたけど、うちのチームは比較的そういうことがなかった。ただ、フランス人好みの食事は優先されていたけど。
   私実家から送られてきた日本茶を飲ませたことがあるんだけど、その時クリスは 「ねえ、この味何かににてるわよねえ、ええっと、ああー水槽の水の味?」ってこらあ、飲んだことあるんかい!!とにかく失礼なんだよもー。自分が嫌いでもサー、飲んでいる人がいるのに水槽の水とか言うかな普通。そんな調子で、マイペースな彼女から発せられる言葉にいちいちカチンと来ることもあったけど、何気にちくりとやり返すコツをつかんだ。ただでは黙っておらんぞ。何の話だったんだっけ?

(4)歌と踊りのアフガニスタン

   アフガニスタンの人は良く踊る。人が集まるところで、音楽と踊りは欠かせないものだ。かつて、タリバン統治時代、人々は音楽のテープをこっそり隠し持ち、見つからないようにこっそり聞いていたそうだ。タリバンによって没収されたテープが、電線にテープを引き抜いた状態でつるされていた写真を見たことがあるが、それぐらい音楽に対する締め付けは厳しかったようだ。こんなに踊りの好きな人達から、楽しみを取り上げて、一体、何を楽しみに生活していたんだろうって思う。踊らないアフガン人なんて想像できない。
   パーティーを開くと、まずはお茶しながらお菓子食べたり、ご飯食べたりして、そのあとみんなでいそいそ場所を片付ける。で、だれともなくカセットを持ち出して、踊り始めるという感じだ。歌と踊りのアフガニスタン アフガニスタンの音楽を表現するのは難しいんだけど、タンブールっていう、大きな琵琶のようなギターみたいな楽器とか、太鼓とか、アコーディオンみたいな楽器を使って、メロディーを作る。もともと昔からの音楽があって、音楽ごとの踊りがあるようで、私が好きだったのは、 「タタン」と呼ばれてた踊り。パシュトゥーン人の人がよく踊る踊りらしいけど、何人かで輪を作って踊る踊り方で、手をたたいて、その手を広げながらステップを踏んで、少しずつ回りながら踊ってく。途中で曲調がかわって、クルッと回ってステップを 「タタン、タタン」と踏むのだ。結婚式でもよく踊られているこの踊りは、なんだか狩猟民族の踊りみたいって思った。
   他の踊りは、好みで好きなように踊って良いんだけど、中には物語を表現するみたいに踊る踊り方がある。二人で踊っているんだけど、一人が女性役一人が男性役で、誘い合うようにして踊るのだ。言うの忘れたが、男性と女性は一緒に踊らない。レイリーいわく 「男の人の前で踊るなんて恥ずかしいことできないわ!」とのこと。でも女性ばかりのパーティーに行くと、女性もすごく上手に踊るんだけど。
   そうそう、そんなわけで、踊りの中で男女の物語を表現したりもしていて、奥が深いなあって感心した。私は音楽にあわせて、なんとか体を動かすくらいだから。歌と踊りのアフガニスタン音楽がなると、誰かが先陣をきって人の輪の真中で踊り出す。ひとしきり踊ると次の人を引っ張って、その人にバトンタッチっていう具合だ。パーティーは食事の後も2時間くらい続く。その間ずっと踊り続けている。踊りはアフガニスタンでは本当に大切な生活の一部分なのである。私達ボランティアにとっても、パーティーでみんなで踊るというのは、楽しいストレス解消法だった。本当なら女性のエキスパットは男性と一緒に踊るべきではないんだそうだけど、例外例外。普段踊るってなかなかないから、私はこのパーティーやるのが結構すきだった。アフガンの音楽にあわせて、アフガンと他の国の混ざったような踊りをする。国際交流っていうんだろうかね、こう言うの。

(5)電気のない冬、ジェネレーターの日々

   アフガニスタンには電気が十分に供給されていない。首都カブールにあってもそれは同じ。クリニックのあるDBエリアに関して言えば、電気さえ通っていない。夜ともなるとガスランプかろうそくで過ごしているのである。私達の暮らしているゲストハウスには ジェネレーター(発電機)があって、電気が止められちゃってもジェネレーターを使って電気を作り出すことができる。MSFのすごいところは、こういうロジスティックの分野で、電気がないところに電気を起こし、水のないところに水を持ってきちゃうことだ。これはどこのミッションでも同じはず。
   ところで、アフガニスタンの電気はほとんどは水力発電に頼っている。そのため、冬の間は川の水量が減り、同時に電気の供給量も減ってしまうのだ。夏になると、山からの雪解け水で水量が増加し、電気の供給量もふえる。基本的に日中は電気が消えていることが多かった。昼間は明るいから電気がなくてもそれほど困らない。オフィスで仕事をしているときはコンピューター関連の電源に関してはバッテリーでまかなえるので、これも特に苦労ない。フィールドで、コンピューターがこんなに苦労なく使えるなんて思っていなかったから、結構驚いた。以前は衛星電話を使っていたそうだが、今はインターネットの方が普及してきて、格段に安いのだそうだ。良く考えたら、ヨーロッパのメインオフィスと連絡を頻繁にとらないといけないんだから、使えて当たり前と言えばそうなんだけどね。
   そんなわけで、自分達の生活をそれほど不便に感じたことはなかった。普通のアフガニスタンの家庭に発電機なんてなく、電気が止められちゃったら 「今日はここまで」のビデオも、ここではジェネレーターをつければ見れちゃうんだから。
   夜のカブールの街を車で移動すると、昼間のカブールの街。夜になると1つの大きな建物に見える土でできた小さな家々に裸電球の明かりがともっているのがみえる。山の斜面に沿うように建っている家に小さな電気がついていて、遠くから見ると、まるで大きな建物みたい。夜カブールについた外国人が 「カブールにはものすごく大きなビルがある。」って勘違いしたという話にもうなづける。
   DBには電気がないので、マタニティでは、日没から6時間と、朝はまた5時くらいから日が昇るまで発電機を使う。発電機が使えない間は、ガスランプをつけて、さながらキャンプ状態。ガスランプで一番困ったのは、色がわからないこと。人の顔を見ても顔色がいいのか悪いのかわからない。赤ちゃんを観察しても同じである。
   電気が自由に使えると言うのは本当にすごいことなんだなあ。アフガニスタンの人達はそんな不便の中に暮らしている。

(6)パンシール渓谷へ

   金曜日は唯一の休日で、たまにカブールを離れて郊外の村などに出かけて気分転換をするともあった。カブール市内から30分も走るとすぐに町のはずれにつく。うす茶色のごつごつした岩山に、たくさんの家が微妙なバランスで建っている、そこを越えると後はとにかく山の上のまっすぐな道が続いていく。今日はパンシール渓谷に行くのだ。ほんとはサラン峠に行く予定だったんだけど、昨日からの大雪でサランに続く道は閉鎖、パンシールに予定変更したのだ。
   カブール郊外に出ると、とたんに風景が変わる。広々とした荒野の向こう真っ白に雪化粧した山脈が見える。長野の山を思い出す風景。季節によるのかも知れないけど、広々とした平原は見ているとものすごく乾いている。道はまっすぐだけど、でこぼこで、ランドクルーザーの横座りは辛いから、靴を脱いであぐらをかいて前を向く。時折白と赤で塗られて石を見かける。このあたりはまだ地雷が撤去されていないのだ。赤い側は危険地帯。白いほうが安全地帯。とはいっても100%安全なんて言いきれない。 アフガニスタンは世界でも有数の地雷国なのだ。地雷撤去のNGOが日夜努力しているが、アフガンに埋まっている地雷をすべて撤去しようと思ったら、いつまで時間がかかるんだろう。放置された戦車そんなふうに当たり前のように、戦争の残骸があちこちに転がっている。時々速度を落とすためにある段差は戦車の車輪の一部だ。橋に差し掛かったときにふと見ると、基礎に戦車の車体がそのまま使われていた。パンシールに向かう途中、平原に戦車がたくさん放置されているところがある。村から外れて何にもないところに、それは忘れ去られたみたいにただそこにある。まるで戦車のお墓みたいだ。本当にこの地域は最後までタリバンと戦っていた所なのだ。 北部同盟のマスード将軍は、アフガニスタンではまるでヒーローのように扱われている。マスードの写真を車に貼り付けている人も多いし、あちこちにマスードのポートレートがあるのだ。いろんなアフガン人に聞けば、彼は必ずしもヒーローではない。 「彼はタリバンと戦ったが、多くの人を殺したのは一緒だよ。」彼は、同時多発テロの前に殺害されてしまったが、最後までタリバンと戦ったパンシールの勇なのである。彼はパンシール出身じゃなかったけど、最後までパンシールで戦っていた。パンシール渓谷のパンシールって 「5匹のライオン」直訳するとそう言う意味らしい。だから「パンシールのライオン、マスード」 と言われていたのかな。彼のお墓は結構山深いところにあって、パンシール渓谷の小高い山の上にある。渓谷がきれいに一望できるところに彼は眠っている。カブールを出て3時間くらいかかった。片道3時間は結構な距離だけど、途中舗装されていない道もあって、ばんばん飛ばすわけには行かないから、どうしても時間がかかるのは仕方がない。お墓は思ったよりも立派で、びっくりした。まず大きなマスードの写真が出迎えてくれる。彼がパンシールにこもっているときに、過酷な環境にあっても、常に勉強していたと言うことがわかる写真だ。マスードのお墓彼は優秀な戦略家だけではなくて、かなりの秀才だったのだと聞いた。 彼のお墓は、まるで小さなうちみたいな建物の中にあるのだ。外は白い壁、緑色のドーム型の屋根がついたかわいらしい感じの建物。マスードのお墓はパンシールの地元の警察が警備にあたっている。彼らが中に案内してくれた。入り口で靴を脱ぐ。雪は降っていないけれど、ぱらぱらと冷たい雨が降っている。脱いだ靴の泥が気になってしまう。タイル張りの床が冷たい。足がかじかむ寒さなのに、警備に当たっている人達は、靴を脱ぐと裸足だった。アフガニスタンの人達は、この寒さにも適応し、厳しい環境の元で何年も戦ってきたのだ。
   マスードのお墓は大きな石でできている。何やらいろいろダリー語で書いてあるけど、何が書いてあるのか、わからない。周りには、いつも誰かが飾るのだろうたくさんの花がある。一緒に来たアフガン人ドライバーは神妙な顔でじっとお墓を見つめている。彼の死を悲しむ多くの人がこのお墓を守っている。たくさんの戦車が残って、戦いの後が感じられるけれど、チャイハナでお茶を飲んでいる地元の人は、にこやかだ。そんな彼らだって、戦争のときマスードを慕い彼についていった、戦士なのだ。 「彼はパンシールの誇りなんだよ。」とパンシール出身のドライバーのサヒさんが言った。
   冬のパンシール渓谷は、寒い。お墓の周りに植えてあるバラの枝が、風でゆれる。春はきれいな花が咲くんだろうなと思う。

(7)水のないスイミングプール

   カブールの市内。中心から見るとやや北東に位置する、ワジー・アクバール・ハーンと言われる地域には小高い丘がある。小高いといっても、結構高い。カブールの中にいくつかある小高い丘のなかのひとつで、上からはカブールの街が一望できる。北東方面には空港がある。水のないスイミングプール木が生えているわけではなくって、ただ、土が剥き出しの丘なのだ。この周囲には大使館関係の建物が多いので、大使館関係の人達が、ジョギングをしたりしている。下から見るとあまりわからないんだけど、この丘にはとてもおかしなものが存在する。スイミングプールだ。これはソビエトがアフガニスタンに侵攻していた十年の間に作られたものらしい。今はプールとしては使われていないが、以前は水をポンプでくみ上げて使われていたのだそうだ。ソビエトの兵士のためのものだったそうだ。今は、地元の若者達がボールを持ち込んでサッカーをしている。ボールひとつあればすぐにはじめられるサッカーはここでも大人気。
   ワジー・アッバール・ハーンの地域は上から見ると、大きな均一なビルがずらっと並んでいるのが見える。左に見えるのが飛び込み台ソビエトの侵攻の時代、ソビエトスタイルのマンションのようなビルが建てられたのだそうだ。目立った大きな建物は、すべてソビエト時の建物だ。政府の官舎みたいに使われていると聞いた。ソビエトが撤退してから、新しいビルは建てられなかったのかなと思う。そこから、アフガニスタンは世界から忘れ去られてしまっていたのだなと思う。今のカブールの姿からは想像できないんだけど、1970年台のアフガニスタンでは、街は美しく整備され、大学には活気があり、街に音楽がながれ、女性ははつらつと外で働き、ヒッピーの憧れの地であったいうことだった。 この時代に書かれた本を見ると、アフガニスタンの自然と文化のすばらしさに触れているものが多い。1970年代に撮られた写真を見て、どこかなーと思ったら、いまは無残に破壊された、警察署の建物のある周辺のロータリーだった。完璧に破壊されてしまったその場所の以前と今を比べると、しみじみ戦争の凄まじさを見せつかられたようだった。ヨーロッパからくるボランティアののなかには、祖父母が以前アフガニスタンに来たことがある人がいたが、美しかった時代と今を比べて、とりわけ心が痛むと言っていたそうだ。
   アメリカがアフガニスタンを攻撃したときは、まずアフガニスタンの丘を制覇したんだそうだ。ただの景色の良いところじゃなくて、戦略的にも重要な場所だったらしい。カブール市内でも、軍隊の施設になっていて、上れない丘もある。一応この丘は地雷撤去済みと言うことだったが、なんだかまったく安心ってできないよなあという雰囲気だった。
   夕方、夕焼けがきれいに見える。カブールのほこりっぽい空気に夕日がにじんでいる。スイミングプールにあるジャンプ台に上った男の子達が、大きな声で笑いあっている。この子達が銃を持ったり、戦いに参加したりすることがないといい。このスイミングプールはこの先また使われるなんて事はあるんだろうか。本当に不思議な歴史の抜け殻。この先アフガニスタンはどんな色に染まっていくんだろうね。

(8)イーストアレフ

   週末になると、余裕があって天気がよさそうなときはどこかにピクニックに行くことが良くある。もちろんこれもセキュリティのきつくないときに限った話ではあるけれど、毎日毎日車でしか移動できない市の中心にいると、とにかく息が詰まってきて、田舎の自由な空気を吸いたくなるものである。でも、いくら田舎に行きたいとは言え、片道3時間もかかるパンシール渓谷のようなところに毎週行っていたんでは余計に疲れてしまう。ただでさえ運転荒いのに。そこで、カブールから出かけるのにちょうどいい小さな村がイーストアレフだ。カブールの北に車で1時間半くらい。以前はタリバンと北部同盟との戦いがあったところである。マスード将軍の別荘が小高い丘の上にあり、ことごとく破壊されていたが、民兵が武器を片手にのんびり日向ぼっこをしていた。ようやく復興が進んできているとはいえ、むらのあちこちは破壊され、崩れ落ちた壁はそのままである。この村は陶器の有名な村で、イーストアレフで作られたお皿などカブールの市内でも見ることがある。お皿の内側を見ると小さく3箇所上薬のはがれているところがあるのだが、薬を塗った後に三脚に伏せて干すために自然についてしまう跡らしい。はじめ不良品かと思った。以前はもっと店が並んでいたと言う小さなバザールにはいろいろな種類の陶器がずらっと並ぶ。どの店も大体売っているものは同じ。値段も大して変わらない。 「何か買うときは、みんな別々の店で買いましょう。みんなが少しでもお金を得られるように。」とフィルコが言う。確かに、ひとつの店で買ったら喧嘩の元になるかもしれない。大きなお皿でも1枚100アフガニー。だいたい3ドルくらいかな。日本には持って帰れないだろうけど、ゲストハウスにちょうど良いと思い、2つ大きなお皿を買った。青と緑が基本色のようだ。日本の陶器に比べたら、もちろん質は劣るかも知れないが、素朴な温かみのあるお皿だ。ここで売っているものはすべてそんな感じのものだった。
   村の中を少し歩く。マスードのゲストハウスバザールを超えて、しばらく歩くと街なんだろうけど、破壊されていて廃墟になったままの家が目に付く。壊された陶器の釜もそのままだ。時々洗濯物が干してある家があることで、人が住んでいることがわかる。マスードのゲストハウスから見えた、反対側の丘の上にあるちょっとした水のある公園に行く。廃墟かなり整備された建物だったけど、そこがホテルだったのか、ただのレストランなのか良くわからない。この村はもともと、休日になると多くの人がピクニックにやってきたそうだ。村の中心に側が流れていて、静かなところだ。丘の上に大きな気が茂っていて、木は無事だったんだと思う。丘の上から反対側の山並みが見渡せる。低空で2機並んで飛ぶヘリコプターが音もなく飛んでいるのが見える。マスードのゲストハウスの2階から近くに軍の空港があるんだそうだ。
   イーストアレフには、アフガンにいるうちに2回行った。冬に来た時はすべてが茶色で、なんだか寒々しく見えたのだが、春になると木々が芽吹き始めて、とても美しい緑に覆われていた。ピクニックにくる人も増えていた。こんな風に、多くの人々がピクニックに行こうと思えるような安らかな国ならどんなにいいかと思う。

(9)バーミヤンへ行く

   十二月下旬、クリスマスの時期にバーミヤンのプロジェクトを訪ねようという話が出た。バーミヤンの病院は開発系のNGOが引き継ぎたいと申し出てきて、あと1ヶ月で引継ぎ、と言う状態であった。
   バーミヤンと聞くと、タリバンに破壊されたことで記憶に新しい石仏が思い浮かぶと思うが、私もその石仏以外は何の知識もないので、どんな人がどんな風に暮らしているかとまったく知らなかった。バーミヤンはカブールから飛行機を使えば20分だ。国内線ではUNの飛行機とパクテックという飛行機と、あとはアリアナ航空が乗り入れている。小型飛行機なので定員は10人程度。エアバスって呼ばれるタイプなのかな。今回はパクテックの飛行機で行った。予約していたので、みんなでぞろぞろ飛行機のところまで連れて行かれて、紙に名前が書いてあるからそこにサインをする。荷物を先に飛行機に積み込んで、じゃあ、はい乗ってねって言う具合だ。エアバスに乗るのは初めてじゃなかったけど、かなり緊張した。なんか落ちそうで。カブール空港を飛び立つときちょっと祈ってしまいました。 ヒンドゥクシュ山脈系の山を越えたらバーミヤンはすぐそこだ。ほんとにあっという間についてしまうのだ。以前バーミヤンから来た患者さんのことを思い出す。彼女はロバに乗って、山を越えて、丸一日かけてクリニックにやってきた。なんだか自分達だけ、恩恵にあずかっている気がして、なんとなく気が引ける。私達にとてこの飛行機に乗るのに90ドルとかって普通に出せる値段なんだ。アフガニスタンの一般の人には、手が届かない額でも。
   カブールを飛んで一気に山が近くなる。今の時期雪が多くて、数日前にどっかり降った雪がしっかりと山を白く包んでいる。すごい光景だ。山の茶色がうっすら見える。雪の白と空の青がまぶしい。上からみるカブール市内も圧巻だ。カブールにかかる空気は曇っていて、毎日さらされている排気ガスがいかにすごいか思い知らされる。このままの勢いで、ディーゼル車がガンガン走って、なんの規制もしなければ、将来本当に深刻な公害になるんじゃないかと思う。東南アジアでの大気汚染が酸性雨を降らせて森を枯らすと言ってたよな。そろそろ、山を越えるみたいだ。眼下に広がる風景ががらっと変わる。何もない土地がぱーっと開けている。多分畑だな。雪で真っ白だ。バーミヤンの景色すごい、空気が違う。飛行機からでもわかるくらい空気が澄んでいる。空の青さも全然違う。雪から反射する光がまぶしい。カブールの標高がおおよそ1800メートルあるといわれている。バーミヤンは2500メートル。紫外線も強いんだろう。そんなところに住むなんてすごいなあ、毎日高地トレーニングみたいじゃないか。 「じゃあ、着陸するよ。」とパイロットが言うんだけど、飛行場なんてない。っていうか見えない。雪で覆われているのだ。そして、飛行場の建物はない。旗が立っているだけ、そしてゲートが遠くに見えるだけ。すごい、こんな空港はじめてみた。バーミヤンに降りるとそこは一面銀世界で、空気がものすごく澄んでいた。びっくり、カブールの空気とは比較にならない。荷物を下ろしてオフィスに向かう。 ここから歩いて行けるそうだ。外を歩いて移動なんてずいぶん違うものである。5分も歩くとそこにアフガニスタンの人達が住んでいそうな、土壁の建物がの家についた。もちろん門はがっちりしているけど、中の建物は地元の人達の家と大差ない。これ、いいわー。カブールの家と全然違う。水道はない。毎日ここで雇われているスタッフが、ロバと一緒に泉まで水汲みにいくのだ。石油ストーブはない。その代わりに薪のストーブで、これが初心者にはなかなか難しい代物なのだ。電気はジェネレーターのみ。なので、夜間は主にランプを使っていた。雪に映えてものすごく幻想的に見えたりして。まったくカブールと比べて別世界だった。カブールにはいろんなものがあふれていて、ともするとアフガニスタンはなんでもある国だって錯覚してしまいそうだけど、実際に郊外の人びとと、そこで働くスタッフの暮らしを見ることができて、非常にラッキーだった。
   ここではカブールに比べて、病院がない状態であるので、MSFが受け持っている病院も非常に小さいのだが、手術可能なまさに病院であった。カブールのクリニックの規模に比べて格段に小さいのに、機能としては上と言うことか。 「君らのクリニックは大きいかも知れないけど、所詮クリニックだろう。うちは小さいけど、病院だからね。」 なんて、バーミヤンのフィールドコーディネーターが自信マンマンで言ってたりしてちょっと笑った。ここにはアジアからの助産師がひとり派遣されていた。彼女は今回でアフガニスタン3回目という人で、彼女からMSFのことについても、プロジェクトの事についてもいろいろと教わった。うちのマタニティではありえないんだけど、助産師が見つからずに、彼女自身が夜勤の当直をやらないといけない状態で、夜中に病院から呼び出され、お産介助をするとか、患者の診察をするというようなことをやってのけていた。すごい!この地域では助産師に限らず、看護師も不足しているような状態で、男性の看護師が多かった。通訳も、女性の通訳が見つからないと言うことで、若い男性が助産師の彼女について仕事をしていた。大変じゃない?と聞くと 「はじめは、夫婦生活のこととか、避妊のこととか、聞きづらかったんだよね。でも、不思議なことに、驚くぐらい女性はオープンに話してくれるんだよ。」 「彼は見た目もごつくないし、ソフトだから女性も安心して話してくれるよ。」と彼女も言っていた。それならカブールもそうやってオープンにやっていけるんじゃないかって思うけど、もう少しこれは複雑かも。それにしてもお産はどうしてるの 「お産の時はさすがに足元に立つことはできないけど、女性の頭がわに立って見えないように通訳してるよ。」 なるほどね。いやー、これは私には逆にカルチャーショックだった。カブールでのきちきちの体制で働いていると、それが当たり前のようになっているけど、同じアフガニスタンでも所変われば、なんだね。お産は多いほうではなくて、毎日あるわけでもなさそうだった。件数でいけばうちはものすごく多いけど、こんなところでゆったりと患者さんに関わっていけたらいいなと思った。 「DBってまさにお産工場だよね。」と言われて、本当にその通りって思った。ここは住んでいる人も、働いている人も本当にのんびりしていると言うのが印象だった。
   次の日の朝、みんなでバザールに行こうという話になった。雪の積もった道をどうやって行くのかナーと思ったら、歩いて。そうなのだ、ここでは外を歩いて動き回ってもいいのだ。村の人たちもMSFがそこで活動しているのを良く知っている。ほかにもいくつかNGOが入っているが、本当にここは治安の良いところだった。で、私達はあるいてバザールまで行くことにしたのだが、家を出て、すぐに目の前に広がる畑の向こうに石仏のある岩山が見えるのだ。感激。すごくきれい。畑でおじいさんが何かしてる。まだ雪が積もっているのに。 「ジャガイモを植える準備をすすめているんだよ。」とのこと。おじいさんもにっこり、ゆったりしていて、ギスギスした感じがない。この辺の人達は遊牧か農業で生計を立てているから、カブールみたいに失業者がすることもなく大勢集まっているという光景は目にしない。みんな何かしらやることがあるのだ。まあ、ちらっと訪れただけだから、他にもいろいろきっと問題もあるんだろうけど。
   雪の道を歩きながら右手に「嘆きの丘」って呼ばれているお城のような丘が見える。ロバを釣れて人が同じ方向に向かっている。みんな泉に水汲みにでているらしい。バザールまでは、歩くと30分近くかかってしまう。雪がすごいからだ。この下に地雷とかないわけ?って思うけど、地元の人が大丈夫と言ってるところは大丈夫なんだそうだ。アフガニスタンは乾燥しているから、雪もべったりしていない。さらっとしている。雪だまをつくってぶつけようとしたら、形にならなかった。時々雪に埋まりながら、膝までずっぽりはまりながら、バザールまでなんとかたどり着いた。カブールのお店の数たるやすごいけど、ここは通りひとつのみのバザールだ。一応お土産やさんみたいなのもあって、骨董品みたいなものが買える。昔の刀とか、絨毯とか、装飾品がたくさん売られている。モンゴルとか中国っぽいものがあったりすると、不思議。アフガニスタンはまさに文明の十字路と言われるだけあるねえって感心しきり。ジャラジャラしたアクセサリーとか、大ぶりで派手なものが多いのもアフガニスタンの特徴かな。私にはちと派手だな。道で子供に会っても 「ギブミーワンダラー」というお決まりのセリフを聞かない。その代わりにバーミヤンの人々 「写真を撮って。」と言われる。なんだか自由にシャッターを切れるうれしさも手伝ってついついたくさん撮ってしまう。カブールにいるときは写真を撮るのにすごく勇気がいる。じっと怖い目で見てくる人もいるから、なんとなく撮るのをためらうし、実はアフガニスタンに着いてときに 「街中でパシャパシャ写真を撮らないこと。」と以前のミッション責任者から注意を受けていた。ここについたときも 「ねえ、写真って撮っていいの?」とスタッフに聞いた。 「全然問題ないよ。」と聞いてうれしくってあちこち取りまくっていたのだ。自然の風景も美しくて、思わぬリフレッシュとなった。当たり前にしてもいいことが禁止されると、やはり窮屈なのだ。ここの状況がわかっていても、なかなかね。以前タリバンの頃は、写真はもちろん禁止だったから、カメラを見つからないように隠し持つのが大変だったそうだ。タリバンに見つかったら、没収はもちろん命の保障がないと言うのだから驚く。今はそこまでの厳しさはないけれど、自分達にカメラを向けられることに抵抗がある人がいるのも事実だ。許可を得てから写真を撮った。どこで自分達の悪い評判が立つともわからないから。
   バーミヤンは自然の美しさと、人々の素朴さが際立っていた。私の中では、空気がきれいなのがいちばんだったけど。
   バザールでナンを買って帰ることにした。ナンやさんにいくと 「中で見ていいよ。」という。ナンやさんの中に入ってナンを焼くところを見せてもらう。次々丸められていく生地を上手に伸ばしながら大きな釜の内側にぴたっと貼り付けて焼くのだ。片方が焼けたら、細長い棒でひゅっと引き上げる。ほんの1・2分ので焼きあがってしまう。あっという間だ。釜の回りは狭くって間違って落っこちないように気を付けながら立ちあがる。立つと煙にやられて目に染みる。目があけられない。焼きたてのナン 「座って動きなよ。」とナン屋のお兄ちゃんが笑って言う。みんなにこにこして 「写真とってくれよ。」っていう。デジカメでとって見せると喜ばれた。 「サンキュー。」と英語で言ってきてくれる。なんだかほんわかする。 「焼きたてもっていきな。」と、今焼いたばかりのナンをもらって帰ることにした。ナン屋には子供もたくさん働いている。時々釜に落ちて大ヤケドをすることがあるそうだ。確かにこっちが見ていても心配になるような小さな子が釜の回りをちょろちょろしていた。子供が大人の社会でがんばって働かないといけないようにできている。なんだかたくましい反面、子供にとっては厳しい状況だなあと感じる。子供じゃないような大人びた目で見られることがあって、時々ドキッとした。

(10)ブッダにて想う

   冬のバーミヤンは本当に美しい。雪に埋もれながらゲストハウスに向かう途中しみじみ感じた。生活は大変そうだけど、なんて言うのか人は自然に暮らしている。雪のなか何時間もかけて、なんども水を汲みに往復するのも生活の一部で、きっとそのために使っている時間ってすごい割合なんだと思う。でも、労力を使って毎日の仕事をこなしていくって実はすごく当たり前なのかも知れないな。日本にいて、私達は自分達の労力を使って仕事をしない分の時間をいろんなことに当てることができて、一生の間にできることがものすごく増えたように思うんだけど。当たり前の生活力が落ちてるんだよなあって思う。ここでの生活は本当にシンプルなんだ。
   昼からみんなで破壊された大仏を見に行った。タリバンに破壊されてしまって、ビッグブッダと呼ばれているほうの、大きな大仏は跡形もない感じだったけど、スモールブッダと呼ばれているほうの小さな大仏は少し形が残っていた。ユネスコが大仏の修復保存のために働いているらしい。看板が立っていた。バーミヤンの石室 「中に入れるよ。」ナジャがかぎを持ってきた。フェンスで囲まれているんだけど、中に入って良いらしい。小さなブッダのほうは、大仏の横の壁をあがって、反対側に回って降りておれるらしかった。左側から上りはじめる。土壁のような乾燥した階段を上っていく。所々ひび割れが入っていて、鉄材で補強してある。崩れたりしないでしょうねえ。あがっていくとバーミヤンのきれいな畑の風景が眼下に広がる。後ろに見える山がとてもきれいだ。 「ここがちょうどブッダの視線くらいかな。」アルーンがいう。「ひゃー。きれー。」 みんな思わずため息が出る。本当にきれい。雪に覆われたバーミヤンの村の風景は本当に美しい。ブッダはこの美しい風景を見てきたんだなあ。ブッダの右側にはいくつか部屋があって、天井画が描かれている。が、すべてが銃で撃って破壊されている。仏が描かれていたらしい壁は仏の顔だけがはがされている。無数の銃弾のあとが見える。他にもいくつか石室のようなものがあったけど、仏像画はことごとく破壊されていて、無残だ。タリバンがブッダを破壊したときの写真をポストカードで見たことがある。こんなのポストカードにするかなと思ったものだ。アフガニスタンに、いま仏教徒っていないと思うけど、それでもこれ破壊しないといけなかったんかね。歴史的遺産って言う考え方はなかったんだろう。文化的なものを破壊すると言うのは、人類を破壊することに等しいように思う。仏像を破壊されるまで国際社会の関心は低かったと言われているから、ブッダは身をもってアフガニスタンの状況を世界に知らせたんだ、と言っている人もいた。不思議な感覚。おかしなもので、本の数年前に破壊されたそこに立っても、あまりこれと言った感情が湧いてこない。現実味がないからなんだろうなあ。ただ、 「高いな、こわいな、すごいな。」っていう、この語彙のないのが丸出しの言葉ばかり。いろいろな想像力を駆使しても、やっぱり何だか感情が湧いてこない。不思議と心は平静だった。多分私は、人を対象にして働いてて、文化財とかそう言うものの価値を知らない人間だからなんだろうか。 「これを修復して、この先観光地としてはやるようになるかな。」なんて意見が聞こえたりして。みんな一貫しているのは、現実にここにいて、現実にアフガニスタンを見ているし、現実として人々が苦しい生活をしているのを目にしているから、いつも本当に現実的にどうしたらいいのかっていうことばかりを考えて口にしているのがわかる。妙に現実的なんだよね。だからなのかなんなのか、私はこっちに来ていろんな状況をみても、それで涙を流したりすることもなかった。かわりに 「なんで?!」ってい思うことが多くて、いつも怒っていた気がするけど。自分の不甲斐なさに泣けてくることはあっても、人をみて泣けるとかはなかった。淡々と日々仕事をこなしていく中で、人々が今置かれている状況が現実で、そこから逃げられるわけでも、一日ですべてが変わる訳でもないと言うことを、誰に言われるわけでもなく悟ったし、そう言うもんだってなぜか開きなおってしまったりして。おかしなもので、どこかに行って、なにか目にしても簡単に感想を述べるって言うのに、いつも抵抗を感じてしまっていた。物事の背景にはいろいろな出来事が隠れていて、それを全部知らないのに良いとも、悪いとも判断ができないような状況が多かったからだと思う。ただ、みんな黙っていた。そして、いつも考えていた気がする。いったんその国の外に出たら、自分の置かれている立場でできる限り感じたことを整理して、人に伝えようと思うんだけど、その国にいるうちは、なかなか物事を見極めるのが難しかった。もともと、あまり政治についても歴史についても詳しいほうじゃなかったから、アフガニスタンの状況をいろいろな面から理解するのに時間がかかった。単純じゃないんだよな、なんだかいろいろなことが。この国を思って戦うなら、この国を本当の意味で守るように戦えないのかなと思う。アフガニスタンにある、自然も、人も習慣も文化も、すべてはこの国の大切な財産だと思う。なにが欠けてもだめな気がする。国を立てなおすって言うのは難しいんだろうな。ブッダの修復みたいに形あるものなら、わかりやすいのに。普通の観光旅行じゃない、何かが胸に去来する。こういう思いをたくさんして、だんだん無邪気じゃいられなくなっていく気がして、ちょっと寂しい気がした。でも単純に思った 「すげー。」っていう感情。素直な気持ちも忘れないでいたい。何も考えずに出る言葉も普通に大事にしたいと思う。ただ、そこにいて、苦境に立たされている人達のそばにいる。私達の原点はそこだと言うことを忘れないでいたい。政治的なこともちゃんと付いてくるといい。NGOだけじゃ国の置かれている状況はよくならないんだから。いつかその国がその国人を守れるようになったらMSFも撤退するんだろう。そう言う時が早くくるといいなと思う。

第4章(1)〜(10)(11)〜(17)

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