昨年暮れからその筋では騒がれていたマレーシアのウイルス病をご存知だろう。いまや新種であることが明らかになり、ニパウイルスと命名された。初めは日本脳炎と思われていた流行性脳炎の疫学的特徴があまりにも日本脳炎のそれと異なることは早い時期から気付かれていた。権威ある研究者の「日本脳炎」であるとの最初の発表が、実態解明を遅らせたとのうわさもある。このマレーシアで発生した新種のウイルスについて情報を得るため、本研究所所長の五十嵐章教授と森田公一講師は、日本国際協力事業団(JICA)の要請に基づき、4月18日から現地視察にはいった。以下は昨日(4月25日)帰国した五十嵐所長からのアツアツのホットな情報である(森田講師は更に数日現地に留まる予定)。日本に非常に近い東南アジアで新種のウイルスが現れ人を殺したことは極めて重大と受け止める必要がある。エマージングディジーズ(新興感染症)は日本と遠く離れた地域だけの問題ではないことがこれで鮮明になった。
なお、この報告にはないが、米国CDCは、3月18日に検体を受け取り2日後の20日には新種であることを突き止め、23日には調査団を派遣したとのことである。その素早い対応には驚くと言うより頭が下がる。現在も現地ではCDCから8名、オーストラリアから2名の研究者が働いているという。わが研究所にもこのような迅速なシステム、稼動可能なP4施設が必要と痛感する。(以上、文責、嶋田、熱帯病資料情報センター)
1998年9月末ー10月にかけて、Perak州、Kinta郡、Ipoh近辺において、急性脳炎患者が散発的に発生した。逆転写酵素ポリメラーゼ連鎖反応(RT-PCR)を用いた実験室内診断の結果、患者の数名から日本脳炎ウイルスの遺伝子が検出され、血清診断でも日本脳炎に対するIgM-抗体が検出された患者も存在した。さらに、流行地の豚は高率に日本脳炎に対する抗体を保有しており、日本脳炎の媒介蚊であるCulex tritaeniorhynchus(コガタアカイエカ)も多数捕獲された。このような情報に基づき、Perak州Kinta郡の脳炎は日本脳炎と判断され、媒介蚊防除のための殺虫剤散布と患者発生地域の住民に対する日本脳炎予防ワクチンの重点的接種が行なわれた。しかしながら、今回の急性脳炎患者のほとんどは養豚業者あるいは養豚と関係がある中国系の成人男子である点で従来の日本脳炎とは異なっていた。ちなみにワクチン接種が行なわれていない発展途上国における日本脳炎患者は、主として15才以下の小児であり、男子が女子よりも高いり患率を示すものの、今回ほどの偏りがなく、人種的偏りも認められない。さらに脳炎患者の中で血清学的に日本脳炎と判定されたのは極一部に過ぎない。Perak州Kinta郡における急性脳炎の患者発生は1999年2月11日まで報告されている。 1998年12月20日から1999年1月1日までNegri Sembilan州Sikamatにおいて急性脳炎患者が発生し、1999年2月12日には同州において最も養豚業が盛んなBukit Pelandokにおいて患者が発生した。1999年4月17日の時点における患者数と死亡者数は、Perak州Kintaで27名の患者中15名が死亡し、Negri Sembilan州Sikamatで7名の患者中5名が死亡、同州Bukit Pelandokでは222名の患者中78名が死亡している。したがって今回の流行における患者は合計256名、死亡者は98名となる。Negri Sembilanの患者も養豚業者あるいは養豚と関係する中国系の成人男子が主体であり、その多くは日本脳炎に対する血清反応が陰性であった。しかしながら日本脳炎の関与を完全に除外することができなかったので、Perak州の場合と同様の日本脳炎対策が実施された。 マラヤ大学の研究者は、1999年3月18日、Negri Sembilanの患者材料から培養細胞を用いて病原体を分離し、米国ジョージア州アトランタにある疾病防疫センター(CDC)において検査の結果、1994年オーストラリアで発生したウマモルビリウイルス病の病原体であるHendraウイルスに類似しているが、別種のパラミキソウイルスであると同定された。この新ウイルスは、患者の発生地点にちなんでNipahウイルスと命名された。米国CDCはオーストラリアと協力して現地調査団を派遣し(3月23日)、既に開発していたHendraウイルスに対する抗体検査方法を用いて、今回の急性脳炎患者材料を検査した結果、その多くが陽性反応を示した。 したがって今回の急性脳炎は、日本脳炎ウイルスの関与は完全には除外できないものの、そのほとんどが新しく分離されたNipahウイルスによるものであると考えられる。 今回の急性脳炎の感染源は、患者の年齢/性別/職業/人種的特徴から、豚が密接に関係していると想定されていたが、人の患者発生以前に豚の異常が認められていたことが後になって報告された。豚は人と異なり、咳、肺炎、呼吸切迫などの呼吸器症状を示し、神系症状はそれほど顕著でない。豚の病理解剖でも肺炎、気管支炎の他、腎臓の点状出血が認められるが、脳には顕著な変化が認められない。病原体ウイルスのNipahウイルスは豚の血液、気管支分泌液、及び尿に存在するので、これらの感染源に濃厚に接触することによって人に感染すると考えられる。マレイシア当局は、上記の知見に基づき、汚染地域の豚を処分することによって感染の封じ込めを図り、1999年3月20日から4月18日までの間に、合計884,477頭の豚を処分した。その結果、Negri Sembilanの患者発生も終息の傾向を示した。 米国CDCとオーストラリアの調査団は、新しく分離されたNipahウイルスの病原性を考慮して、本ウイルスは物理学的封じ込めレベルP4で取り扱う必要があると指摘している。彼等の今後の活動方針は、既に開発しているHendraウイルスに対する抗体検査キット、及現在開発中のNipahウイルスに対する抗体検査キットを用いて、1)マレイシアの豚の血清を検査し、陽性を示した地域の豚を処分することによって、感染を未然に防止する。2)豚以外にも各種の家畜・野生動物の血清について抗体検査を行ない、必要とあれば抗体陽性を示した種類の動物を処分する。3)Hendraウイルスの自然宿主がオオコウモリであることに習い、Nipahウイルスの自然宿主を検索するために、コウモリを中心にゲツ歯類などの抗体保有状況を検査する。4)マレイシアにはP4レベルの封じ込め施設がないのでウイルス分離及生きたウイルスは取り扱わない、という方針である。 今回のミッションは急遽提案されたにもかかわらず予定どうり実現されたことについて、マレイシア国保健省、同国獣疫研究所、マラヤ大学、在マレイシア日本大使館、国際協力事業団(JICA)医療協力部、JICAマレイシア事務所の関係者各位に深謝します。五十嵐章(長崎大学熱帯医学研究所・病原体解析部門・分子構造解析分野・教授)