千葉大班研究計画
武井秀夫 千葉大学文学部教授
小谷真吾 国立歴史民俗博物館共同研究員
岩佐光広 千葉大学博士課程在籍
鈴木勝己 千葉大学博士課程在籍
タイトル
健康希求行動を中心とする健康転換の分析:ラオス人民民主共和国地域コミュニティにおける人類学研究
研究の背景
ラオス人民民主共和国(以下ラオス)は、第二次世界大戦後の60年で@人口転換(出生率の低下、死亡率の低下、国内外への移)、A健康転換(感染症の減少、および非感染疾病の増加、健康希求行動の変化)、及びB栄養転換(食餌及び栄養素摂取の変化、身体活動の減少、体格の変化)を経験してきた。こうした人類生態学的転換にともない、国内外の機関によって国家レベルでの健康に関する全体的な研究が実施され、ラオス国民の健康状態が徐々に明らかになってきている。しかしながら、個人、世帯、あるいはコミュニティのレベルにおける健康転換の条件、メカニズム、及び決定要因は、まだ十分に解明されてはいない。本研究は、日常的に実践されている健康希求行動に焦点を当てながら、個人、世帯、コミュニティレベルでの健康転換の分析を目指すものである。
また本研究は、コミュニティの社会文化的な諸条件の調査も行なう予定である。様々な先行研究が指摘するように、健康希求行動は社会文化的な条件の影響を強く受けている。ラオスにはラオ族、カム族、モン族といった多数の民族が存在し、それぞれが変化しながらも固有の文化を保持し続けている。またその地理的条件から、タイ、ベトナム、中国など他国からの影響も受けている。そのためラオスは複雑な社会文化的条件を有しており、それに伴い保健状況も複雑なものとなっている。例えば、コミュニティレベルで実践されている治療の選択肢を見ても、一般病院(hospital)、地域保健施設(health post)、薬局(pharmacy)といった西洋医療の利用だけでなく、薬草(medical plants)、伝統的医療者(traditional healer)、スピリチュアリスト(spiritualist,)といった伝統医療の利用、精霊(phii)への供儀、祈祷、占いといった宗教的価値観に基づいた治療実践など、多岐にわたる。こうした多元的な医療状況における保健行動、さらには健康状況を分析するには、その背景をなす社会文化的条件(宗教、土着の信仰、民族的出自、親族構造、コスモロジーなど)も同時に分析する必要がある。加えて、このような社会文化的な諸条件は、その性質上、量的調査だけではなく質的調査による分析を必要とする。しかし、現時点で得られているラオスの社会、経済、健康に関する諸データは、おもに量的調査に基づくものであり、質的な調査方法による分析は不十分である。以上の点から本研究では、主に質的調査方法を用い、調査対象となるコミュニティの社会文化的諸条件に関する質的データを収集し、そのデータと関連付けながら人々の健康希求行動を解明していくことを目指す。
目的
1. プロジェクト全体の研究目的
ラオスの地域コミュニティは人類生態学的転換(人口転換、健康転換、栄養転換)経験してきたが、その転換の度合いはコミュニティによって異なり、その相違は地域コミュニティの健康格差を生じせしめていると考えられる。そうした格差を解消するためには、まずコミュニティごとの転換の程度を明らかにしなければならないと考える。このプロジェクト全体の目的は、人類生態学的転換の主な決定要因を解明し、ラオスの持続可能な健康開発に貢献する可能性をもつ、人間と環境の相互作用に関する情報を提供することにある。
2. 本研究の研究目的
本研究は、おもに地域コミュニティにおける健康転換の質的な側面を明確にし、それぞれのコミュニティにおける健康転換のメカニズムを明らかにすることを目的とする。特に、コミュニティの社会文化的条件に関連する健康希求行動に着目しながら以下に記す項目の検証を試みる。
・ 生物医学的な施設や専門家を含めた生物医学医療の資源(Biomedical Resources)、伝統医療や民間治療者を含めた地域医療の資源(Local Medical Resources)の存在及び利用状況の同定
・ 健康希求行動への各資源の影響力の評価
・ 医療に影響を与える生態学的、社会文化的、経済的な要因の同定
・ 個人、世帯、コミュニティレベルでの意思決定プロセスの分析
・ ラオスの都市部、あるいは近隣諸国での状況と比較することによる、地域コミュニティの医療システムの状況と健康転換の程度の分析
研究の特色
1. 医療人類学の視座
医療人類学の分析枠組みでは、学問的な蓄積である医学とその実践である医療全般を、社会文化的な背景を考慮しつつ扱う。対象となるのは、主に医科学の知見に依拠する近代医療から、エスノサイエンスや宗教的価値規範に依拠する伝統医療まで広範囲にわたる。したがって医療人類学が想定する「医療」とは、自宅での治療行為や自己治療をも含むものであり、制度的な医療の範疇にとどまらない。こうした「広義の医療」を扱う医療人類学が目指すものは、様々な観点から非西洋医療を分析することで、そこに内在する合理性を理解し、同時に近代医療の課題を克服していく視座を提供することである。「広義の医療」を扱う医療人類学は、医科学と人類学の双方に新しい知見を加えていこうとする学際的な学問分野である。
2. 質的調査
質的調査は医療人類学が最も重視する調査方法の一つである。量的調査は、質問紙調査や統計学的手法を用いて、得られた資料を数量化し分析する調査方法であり、客観性、再現性を重視するが、そうした調査は、質問紙票の作成段階で調査者の主観が強く影響し、重要であるかもしれない少数の事例を例外として分析から排除してしまう傾向がある。一方、質的調査は、主に聞き取り調査と参与観察からなり、対象そのものを深く理解してから仮説を生成するプロセスを経るため、調査者の主観を超える仮説が得られる可能性を持つ。だが、扱うことができる事例数の少なさや客観的な検証の困難さから、質的調査の仮説や解釈には偏りが生じやすいことも指摘される。本研究では、それぞれの調査方法に妥当性はあっても優劣はないという立場から、人々の健康転換を分析する手法として質的調査を重視する。
方法
1. 調査地の選定
研究プロジェクト全体の方針に従い、3つの地域の中から調査地域を選択する。すなわち、ラオスの北部、中央部、南部である。第一のフェーズでは、ラオス中央部サワンナケートから調査を始める。調査が順調に進んだ場合、調査地域を北部および南部に拡大する。調査の必要性に応じて他の地域が含まれることもある。
2. 調査方法
*文献調査
行政資料(とくに統計学的データ)や先行研究を参照しながら、村落コミュニティの健康状態及び社会経済的状況の概要を調査する。具体的には、対象地域における疾病分布、それぞれの疾病の罹患率、栄養摂取状況、出生率/死亡率といった健康状態や、収入、電気の利用、飲用水の確保といった人々の生活状況を明らかにしていく。
*世帯調査
対象コミュニティの生活状況に関する基礎データを得るために、全世帯を対象とした世帯調査を実行する。調査の内容は下記の項目が含まれる。
・ 各個人の氏名、年齢、性別、世帯主との関係
・ 世帯主の民族的出自
・ 成人した成員の職業、現金収入
・ 教育状況
・ 宗教
*地域コミュニティにおける参与観察
いくつかの地域コミュニティにおいて人々と生活を共にすることを通じて、衣食住や労働といった日常的な活動と、儀式、儀礼、祭事などの特別な活動に関する参与観察を実行する。この方法は、半年から2年という長い期間、特定のコミュニティに滞在し、現地の言葉、生活様式、信念や価値観などの文化を習得し、現地の人々の視点から様々な社会文化的現象を理解しようとするものである。この調査を通じて、人々の健康状態の背景を成していると考えられる社会文化的諸条件を把握し、保健行動に関する調査の基礎を得ることを目指す。
*世帯構成員に対する構造的インタビュー
健康希求行動をはじめとする健康状況に関する量的データを得るために、すべての世帯に対して構造的インタビューを行なう。このインタビュー調査では、現地における病いの分類、病因論、健康希求行動のパターンを含めた、現地の人々の病気と治療法に関する民俗的な認識の把握を目的とする。とくに、病気やけがをした際、どのような治療をどれだけの期間実施したかを聞くことで、人々がどのような治療プロセスを経ているかを記述することを目指す。インタビューには以下の点が含まれる。
・ 誰が病気になり、どのように診断されたか
・ 選択された治療と治療者、その利用期間
・ それぞれの治療法の評価
*キーインフォーマントに対する非構造的インタビュー(一般人と医療専門家)
健康希求行動をはじめとする健康状況に関する質的なデータを得るために、特定のインフォーマント(キーインフォーマント)に対して非構造的インタビュー調査を行なう。このインタビュー調査では、対象となる人々が自分たちの健康状況や医療、病気、けがについてどのように考えているか、なぜある治療よりも別の治療を選択する傾向にあるのか、といった点を聞き取ることで、人々が健康希求行動を社会文化的文脈の中でいかに決定しているのかを明らかにすることを目指す。インフォーマントは世帯調査と構造的インタビュー調査に基づいて選択される。インフォーマントとなる人々は、様々な地位、年齢、性別を有する人々であり、少なくとも10名を想定している。
加えて民間医療者、医師、看護婦、ヘルスプロモーター等へのインタビューを行なう。このインタビューでは、彼/彼女らの医療観や人々の健康状況に関する見解を明らかにするとともに、人々の健康希求行動についての補足的な情報を得ることを目的とする。可能であれば、彼/彼女らの治療実践を観察し、それらの行為についてのインタビュー調査も行なう。
*比較分析
ある程度のデータが収集・分析ができた段階で、対象コミュニティにおける健康状況、社会文化的状況の特徴を同定するために、コミュニティ間、都市部と村落間、近隣諸国との比較分析を行なう。この時、同プロジェクトの研究者が収集したデータや、先行研究を参照する。
期待される結果
本研究の目標は、地域コミュニティにおける健康希求行動の調査を通して、ラオスの人々の健康状態及び健康転換と社会文化的な諸条件の関連性についての質的データを収集し分析することである。こうしたデータやそこから得られる知見は、人々の健康状態について、これまで蓄積されてきた量的データとは異なる情報を提供することができ、保健教育やヘルスケアの改善について検討する際の基本的な素材として活用することができるだろう。またこうした素材の提供を通じて、国家の保健健康政策をそれぞれの地域の社会文化的状況に関連づけることに貢献できると考える。
また博士課程に在籍する調査者は、この研究に基づいた博士論文を書き、国際的なジャーナルあるいはローカルなジャーナルに原著論文を投稿する予定である。
メンバー
武井秀夫 千葉大学文学部教授
小谷真吾 国立歴史民俗博物館共同研究員
岩佐光広 千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程在籍
鈴木勝己 千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程在籍
タイムスケジュール
本研究は、京都、長崎、ビエンチャンで開催される予定のプロジェクト全体のセミナーを契機に3フェーズに分かれている。第1フェーズでは、具体的な対象コミュニティの選定と、基礎情報を得るためのセンサスを実施する。第2フェーズでは、当該コミュニティの年間を通してのライフスタイルの把握と、構造的インタビューによるエピソード収集を行なう。第3フェーズでは、キーインフォーマントに対するインタビューを中心に質的な情報の収集に従事する。加えて、それぞれのセミナーにおいて調査に関する報告・発表を行い、調査状況を見直す機会を設ける。
・武井秀夫
2005年1月 全体セミナー(報告、発表)
2006年1月 全体セミナー(報告、発表)
2006年2月中旬 岩佐、鈴木フィールド訪問
2007年1月 全体セミナー(報告、発表)
・小谷真吾
2005年1月 全体セミナー(報告、発表)
2005年10月下旬 岩佐、鈴木フィールド訪問
2005年2月中旬 岩佐、鈴木フィールド訪問
2006年1月 全体セミナー(報告、発表)
2006年2月中旬 岩佐、鈴木フィールド訪問
2007年1月 全体セミナー(報告、発表)
・岩佐光広
2003年10月17日-12月14日 ビエンチャン及び対象コミュニティ
2004年2月8日-3月28日 ビエンチャン及び対象コミュニティ
2004年5月上旬-12月下旬 対象コミュニティ
2005年1月 全体セミナー(報告、発表)
2005年2月上旬-12月下旬 対象コミュニティ
2006年1月 全体セミナー(報告、発表)
2006年2月上旬-12月下旬 対象コミュニティ
2007年1月 全体セミナー(報告、発表)
・鈴木勝己
2004年1月16日-2004年3月28日 ビエンチャン及び対象コミュニティ
2004年5月上旬-2004年12月下旬 対象コミュニティ
2005年1月 全体セミナー(報告、発表)
2005年2月上旬-12月下旬 対象コミュニティ
2006年1月 全体セミナー(報告、発表)
2006年2月上旬-12月下旬 対象コミュニティ
2007年1月 全体セミナー(報告、発表)