アフガニスタンボランティア −国境なき医師団助産師の6ヶ月−
波多野 環
<第2章 Mission in Afghanistan>
(1)引継ぎ
空港で私の前任者ジェニーに会ってまず落ち込んだ。彼女はかなり年配で、ほとんど私の母くらいの年齢だった。これはもう、私がほんとうに子供に見られるということが明らかだった。それにしてもこのチームの中では私の年齢でも若い方で、カブールプロジェクトが経験を重視していた事がわかる。ジュリーはすごくナショナルスタッフになれているように見える。
「ねえ、どうして延長しなかったの。」「もう十分。帰りたいわ。娘がもうすぐ出産するし。私も更年期で辛いし。」なるほど(笑)ベテランさんにはそれなりの苦労があるのね。
空港からオフィスまではおおよそ30分くらいかかった。ボスは早速アフガニスタンの状況とかいろいろ、アシスタントになるカリムさんに聞いている。私はとにかく圧倒されて、窓の外を見て驚くばかりだ。これ、アフガニスタンでは普通なんだろうけど、信号がない。こんなに車があるのに。交差点の真中にどうやら警察の人らしき人達がいて、手信号で車を誘導している。見ると道路の傍らには昔使われていたらしき信号機があった。そっか、本で読んだけど、ソビエトが侵攻していた十年カブールは本当にモダンなところだったんだ。今も使われているマンションのような住宅も、かつてソビエト時代に建てられたものらしい。あちこちで新しいビルの建設が進んでいる。これが戦後の復興の姿。これからまだまだいろんなものが見えてくるに違いない。道沿いにはたくさんの店がひしめき合っていて馬車も走っている。
インドネシアのロンボク島をもう少し大きくして、人をベトナム並に増やした感じ。とにかく車、車、車。お店、お店、お店。砂埃、排気ガス、のどが痛い。運転の荒さもこれ、ほんとにすごい。MSFは本当にすごい車を持っていて、ラジオ通信機搭載のごっついトヨタのランドクルーザーに乗っている。ちなみにこれで20キロくらい先までは通信可能。トヨタってほんとに世界のいたるところで使われている。私は豊田市出身だけど、こんなとこでこんなにもトヨタの車にお目にかかるとは思ってもみなかった。アフガニスタンって、何もないように思っていた。荒涼とした風景しか知らなかったから、こんなに車が走っているということに驚いた。復興に向ける人々の活気が伝わってくる。人があふれている。これはカブールが特別なんだろう。とにかく、これがアフガニスタン。きっと私が思っていたアフガニスタンと、本当のアフガニスタンとは違うっていうことなんだろう。
そうこうしているうちにオフィスに到着。なんだかすごい、鉄の頑丈そうなゲートを開けて車は入った。駐車場では、何人かのアフガン人スタッフが砂袋を作る作業に追われていた。銃撃を受けたときのために、砂袋を駐車場とオフィスの間においてガードするらしい。ここまでしないといけないのか。ちょっと怖い。銃撃とか、ロケットとか、ほんまかいな。
さて、ここからはもう名前攻めだった。「この人がガードマン、この人は運転手、この人はメカニックで、この人はロジスティックで・・・。」
って覚えられない!しかもみんな顔がこわい!ターバン巻いてる!こういうスタイルってタリバンだけなんだと思ってた。こりゃ、みんながタリバンに見えるよう。ひげも怖いし、男の人ばっかりだ。どうやら、ほんとにこのプロジェクトの多くはアフガニスタン人スタッフで運営されているらしく、とにかく名前を覚えるのも至難の技だ。オフィスに入りまた出会った人に挨拶、挨拶。「アフガニスタンをどう思う」って早速聞かれたけど、どうってまったくわかんないよ。とにかく、私のイメージとは違うって事はわかるけど。今日は早々にもクリニックにいくらしい。ほっと一息つくひまも無い様だ。昨日ほとんど寝てないから少し辛いけど、ジェニーからの引継ぎは彼女の都合で2日しかないから仕方ないのかもしれない。カブールプロジェクトの部屋に入ると通訳のレイリー(現地スタッフ。元英語教師)が満面の笑みで迎えてくれた。
「ようこそ!アフガニスタンへ!」いきなりほっぺにキス3回。にっこり笑顔でレイリーは
「たまきのために机の上きれいにしておいたわ!私はあなたの通訳です。よろしくね。」
アフガニスタンの女性についてのイメージはあんまり無かったけど、テレビで見るアフガンの女性は伝統的な衣装を身につけていて、ブルカかぶっているイメージだったんだけど、レイリーを見たときは、そのイメージが吹き飛んだ。彼女はとにかくとってもおしゃれで、黒のきれいなトップスにジーンズ、厚底の靴。きれいなコーランをモチーフにしたゴールドのネックレス、つめにはばっちりマニキュア、髪の毛はどうやってやったんだろうって聞きたくなるくらいきれいに纏め上げられている。化粧もきれいにしている。これはこれは、こんなアフガニスタンの女性もいるんだ。彼女はパキスタン帰りで、いわゆる裕福な家庭のお嬢さんだ。すごい、アフガニスタン。みんなが貧しいわけではないんだ。これは新鮮な驚きだな。この先は彼女とほとんど一緒に過ごすことになるらしい。
MSFは仕事の効率を最優先させるから、必ず通訳をつけているらしい。確かに、私には言葉を覚えている時間は無かったもんな。アフガニスタンはダリー語を話す。ペルシャ語語源の言葉らしい。看板もあの読めそうに無いニョロニョロ文字。あれは右から読むんだって、くる前に本で読んではじめて知った。これは覚えるのは至難の技かも。でも、6ヶ月あるんだ、少しずつ覚えることができるかも知れない。最低、挨拶とかできるようになるといいだろう。
この日はとにかく、怒涛の紹介ラッシュで、本当に覚えきれない人に会った。名前が難しい。日本の名前とはぜんぜん違うもの。こりゃしばらくは、私名前覚えるだけで終わってしまいそう。
「私、6ヶ月いたけど、まだ名前覚えられない人がいるのよね。」とジェニーは笑っていた。名前くらいはしっかり覚えたいなと思った。
引継ぎは、本当にあわただしく、ばたばたと過ぎていった。私はたった2日でこの引継ぎを終えないといけないんだけど、こんな短時間で仕事のすべてを把握するのは不可能やった。ボスは1週間引継ぎがあるのに。後で聞いたけど、これはとにかくジェニーの都合だったらしい。この人結構いいかげんで「わからないことがあったら、レイリーが全部知っているから。」
でおしまい。そりゃ彼女はここでの仕事が長いけどさ、資料がどこに入っているとか、コンピューターに入っているプロトコールの話とか、あったでしょうに言うことが。全部後になって見つけ出したものがいくつも・・・。
情けない話、私はミッションの何たるかと言うものを、まったくと言っていいほど知らなかった。いろいろなプロトコールが作られていることも、毎週やると言うトレーニングのことも、まったく理解していなかったのだ。ここでの仕事は、実際の業務のほかに、統計処理をやらないといけなくて、毎月その数値に関しての分析を行うんだけど、それに関しての説明もまったく無し。「聞いてないよー」の世界。月末になって、レイリーから言われて、初めて自分がやらないといけないんだということを知った。何聞いていいのかもわからない状態で、こんなんでやっていけるのか。2日間の引継ぎは、クリニックと搬送先の病院への顔見せで終わってしまい、なんで自分がここに来ないといけないのかと言うことも理解できずに、不安をたくさん引きずったままだった。なんでなんでと聞いても、きりがなかった。
彼女が帰る日の朝、一枚の紙を見せてこう言った。「じゃあ、今日はトレーニングの日だから、これやっておいてね。」渡されたのは、抗生剤の使用についてのプロトコールだった。全部のプロトコールも把握していないし、クリニックの状況も把握していないのに。
「書いてあること言うだけよ、とにかくやって。毎週やるって決まっているんだから。」そうして彼女は帰っていった。
(2)セキュリティルール
アフガニスタンのミッションには、多分ほかのミッションでもそうなんだろうけど、たくさんのセキュリティルールがある。とにかく身の安全に関してルールを無視しては行動できない。もし、何かあれば、その国での活動を休止、中止するに至る。一人の不注意で事故に巻き込まれてしまえば、フランスセクションだけでなく、アフガニスタン全土で活動する他のMSFセクションにも影響を与える事になるのだ。私はセキュリティブリーフィングをボスと前任の責任者から受けた。
アフガニスタンでのMSF活動の歴史、ここ数年の状況の変化。MSFの一員として活動する際の注意など。具体的には、外出する時は常に携帯無線を持ち歩き、移動するときは自分の居場所を明確にしなければならないということ、一人では道を歩いてはいけないということ。このラジオが高価で800ドルするから、無くしたり盗まれたりしないように気をつけること。文化の違いと言う点から、挨拶をするときは女性から握手を求めてはいけないということ、女性はスカーフをかぶり服装はアフガニスタンの服を身につけること。短いのはだめ。などなど、とにかくいろいろある。中でも、これはセキュリティに関することなのか?と思ったのは
「アフガニスタン人との恋愛はご法度」ということだった。これは他のボランティアもおかしく思っていたらしくて、その後私が
「あの人かっこいいよね、結婚してるのかな。」と聞くたびに「たまき、セキュリティルールを忘れたの!?」
なんてちゃちゃを入れられるはめになった。はっきりはわからないけど、アフガニスタンの人達は非常にコンサバティブで、そしてとても信仰が深いイスラム教徒だから、付き合いが深くなると、たいてい家族やらなんやらの間でトラブルになるらしかった。ナショナルスタッフに聞いたけど、アフガン人と結婚したらイスラム教徒にならなきゃだめ!と力説していた。なんでさー。多分、そんな人ばかりじゃないとは思うけど、ぜんぜん無宗教だったり、他の宗教の人が、結婚したからって改宗するなんて大変なことだと思う。私にはできそうに無いな。
私がアフガニスタンに行く前に、カブールで国連の女性職員が射殺されるという事件が起きていたので、セキュリティに関してはかなり厳しくなっているようだった。でも、このセキュリティも時々不思議に思うことがあって、毎週木曜日に「国際赤十字」のオフィスで開催されているパーティーには行ってもよかったり、金曜日にカブールから出て、ピクニックに行くことは許可されていた。パーティーなんて、人がたくさん集まってよっぽど危険だと思うんですけど、って。
セキュリティールールは常に状況に対応するようになっていた。ある時、
「カブールのどこかのレストランに爆弾が仕掛けられたらしい。」
といううわさが流れ、しばらくレストランへ行くことを禁止され、レストランの近くも通らないように注意がなされた。レストランに入るときも、できるだけ窓際は避けるようにとの注意も受けた。また、あるときは
「カブール市内でNGO職員をねらった誘拐事件の計画がある。」
といううわさが流れ、私達のオフィスから他のゲストハウスまでの、ほんの100メートルの距離を車で移動しなければならない羽目になった。ただ洗濯物を取りに行くだけのくだらない理由で運転手さんに車を出してもらわないといけないなんて、ものすごく窮屈だった。これも1週間ほどで解除されたが、どこかで「うわさ」が流れるたびに、安全が確認されるまでは「これでもか、これでもか」というほどのセキュリティルールがひかれる。
私がカブールについたのはまさにロヤジルガの前だったから、ミーティングの際に、どこどこでミサイルが設置されているのが見つかった、とかインターコンチネンタルホテルの近くにロケット弾が落ちたけど、怪我人はなかった、とかまるで日常茶飯事だった。
毎朝のミーティングで、なにかあったかナショナルスタッフに聞いて常に安全情報を確認していた。怪我人が無いと聞くとほっとしていたけど、戦争は終わったはずなのに、この国には武器があふれていた。戦争は終わっていないんだなと思う。日本人や他の国の人が思うほど、アフガニスタンの状況は楽観的ではない。街を車で移動すれば、必ず国連部隊の大きな装甲車に出くわす。街にはアフガニスタン軍の兵隊も銃を持って立っている。普通に武器を持っているから、慣れてしまいそうだけど、これは本当にすごい光景なんだと思う。普通の街でこんなに軍隊を送り込まないと維持できない平和というのはどうなんだろう。カブールの警備は他の地域に比べると、格段に厳しいらしかった。カブールはカルザイ大統領はじめ、多くの閣僚が居を構えている。カブールの治安の悪化は国自体の基盤を揺るがしかねないということだろう。
ロヤジルガは、今後のアフガニスタンの政策について話し合う重要な会議だ。みんながどんな政策が話合われるのか注目している。ドクターアミン(アフガン人精神科医)は
「あんなの大した事話し合ってないんだよ。それぞれの県の代表が自分達の県に都合のいいようにいろいろ主張するだけだよ。アフガニスタンにいい政治家なんていないんだから。ホテルで毎日パーティーだろう、そりゃ誰も早く終わらせたくなんて無いんだよ。」
と何やら悲観的だったけど。さておき大変だったのは、信じられないくらいの交通渋滞だった。
ロヤジルガ開催の12月14日はとにかくすごかった。ロヤジルガはインターコンチネンタルホテルで行われるということで、ホテル周辺の道は封鎖。いつもは交通整理の警官がいるところにいなかったりして、道は大混雑。それに加えて、ここには譲り合う精神は無い!絶対に譲らない!いつもは長くても40分でクリニックにつくのに、閉鎖されている道をさけ、大渋滞にはまりながら1時間半くらいかけて通うことになってしまった。これが十日間も続くなんて・・・。ロヤジルガ開催期間中の交通渋滞は初日よりは改善したものの、相変わらず皆の不満をあおり、「カブールの悪夢」
なんて新聞記事が出たほど。それくらいひどい渋滞で、毎日クリニックに行くだけでどっと疲れていた。
時々遠くでロケット弾が落ちる音が聞こえたり、どっかで爆発音が聞こえたりして、毎朝のミーティングで報告があった。12月28日にはカブールで初めてといわれる自爆テロがあり、アフガニスタンの閣僚と犯人を取り押さえようとした人合わせて5人が殺害されるという事件もあった。カブールは比較的治安が保たれているという気持ちでいたから、この事件があった時は空港の近くと言うことで、少し恐ろしかった。毎日の生活は単調で、ともすると自分が危険な状況で働いていることを忘れがちだ。忘れたころに、いつも何か起きていた。不思議とアフガンスタッフは落ち着いていて、誰もロケットが落ちたとか、テロがあった、とかいうことに過剰に反応することは無かった。彼らが平常でいるうちは大丈夫なんだろうと思っていた。彼らの情報はいつも早い。ほんとにどっから聞いてくるのか早い。国で起きている事件は、自分達の生活に関わってくることをみんなよく知っていて、常に情報に関して敏感だった。アフガニスタンの人はそうやって戦争も切り抜けてきたんだなと思う。
とにかく、悪夢といわれた渋滞が緩和するまではしばらく時間がかかり、はじめは10日といわれたロヤジルガも、結局3週間以上続いたのだった。
(3)スタッフ構成
私が派遣されたときの外国人スタッフ構成は、ミッション責任者(ボス)とアドミニストレーター(人事会計管理。以下アドミ)メディカルコーディネーター(以下メディコ)からなるコーディネーションチームと、カブールプロジェクトを任されているフィールドコーディネーター(以下フィルコ)、心理療法士(クリス)、医師(小児科医 カリン)助産師(私)、の4人だった。他には私達のゲストハウスの移動と冬の難民への配給のために2ヶ月だけロジスティシャンがいた。
コーディネーションはMSFフランスがアフガニスタンに持っている3つのプロジェクトの管理をしている。私達のカブールプロジェクトのほかに、ガズニプロジェクト(治安の悪化により外国人スタッフ撤退。現地スタッフのみでの活動を行っている。結核のコントロールが主な仕事。)、バーミヤンプロジェクト(病院の管理運営)があった。バーミヤンの病院は近々イスラム系のNGOに引き継ぐ予定だった。アフガニスタンでの活動が縮小する中で、カブールプロジェクトは、ちょうど女性の心理療法プログラムを中心に、活動を拡大するところだった。
MSFでの活動では、数人の外国人スタッフが派遣されて、スタッフの教育管理を行い、実質的な仕事は現地スタッフによって運営される。私達はカブールプロジェクトチームでひとつの家に住み共同生活をするのだ。コーディネーションは別に家を持ち、MSFフランスのデスクからの訪問者が泊まったり、ゲストを招いたりしていた。時々一緒に食事をするけど、現場チームとコーディネーションはやっていることがかなり違っていた。フランスのミッションだとどうしてもみんながフランス語を話して、フランス語話せないスタッフは辛いと言うことを聞いていたけれど、私達のチームではあまりそう言うことを苦痛に感じることはなかった。たまに他のNGOの人を招いたときに、英語が話せない人がいたり、フランス語で盛り上がったりしていたけど、私はあんまりそういうのも気にならなかった。多分知らなくていいこともあるだろなという感じで。仕事以外のことに関してはあまり気にしなかった。
私達のカブールプロジェクトにはナショナルスタッフとして、外国人ボランティア(以下エクスパット)のために通訳が女性の通訳が3人。アドミ、薬剤師、ロジスティシャン、精神科医、大工、あとドライバーが3人いた。このほかにも門番さんや、クリーナーさん、コックさんを含めると、このプロジェクトに関わっている人の多さがわかるだろう、運転手さんやクリーナーさん達を除いて、みんな英語を話すので仕事は比較的やりやすかった。クリニックで働いているスタッフのうち、数人は保健省(以下MOH)からの雇用だが、ほとんどはMSFが雇っていた。医師6人(院長含む)、助産師16人、看護師15人、検査技師1人、薬剤師2人、クリーナーさんや門番さんあわせて10人以上。とにかくクリニックの雇用は増える患者さんに合わせて増大傾向だった。
MSFは単独でクリニックを経営しているわけではなく、建物はドイツの建築系NGOであるGTZが請け負っていたし、クリニックで働くスタッフの給料をエコーと言うEUの人道援助機関が負担していた。そのためエコーから時々視察の人が来て、クリニックの運営状況を見学に来ていた。
そんなわけで、仕事をはじめるにあたって、この人事構成を把握するのにかなり時間がかかったのである。
トップページへ
|
|