アフガニスタンボランティア −国境なき医師団助産師の6ヶ月−

波多野 環

<第1章 アフガニスタンへの道>

(1)やっときた派遣

   「波多野さんアフガニスタンに行きませんか?」 国境なき医師団 (以下MSF)オフィスから電話があったのは、ちょうど青年海外協力隊の説明会を聞きに行った帰り道だった。その時、私はMSFに登録されてから、1年以上派遣を待っている状態だった。派遣の依頼がこないなかで、長崎大学での熱帯医学研修を受けたり、研究所の教授が調査をしているフィールドにお邪魔したりしながら、なんとかしてこの世界で、国際的な医療活動に参加したいと切実に思っていた。何も経験が無いということは自分にとってはかなりもどかしく、とにかく外に出たい一心だった。協力隊の説明を聞きに行ったのも、そういった理由だった。
   「アフガニスタンですか?」 その時の私はアフガニスタンに関する知識は、テレビの画面から流れてくる荒涼とした風景と、戦争に疲れ果てた人々の姿くらいのものだった。 「そうです、あちらのほうからオファーがあったものですから。」 「そうですか、わかりました。・・、行きます。」
   特に迷いはなかった。MSFでは、行きたい国とか、行きたくない国を言うことができる。でも私は、現場に出たかったのだ。即座にお受けすることにした。生活について、人々の置かれている状況についてほとんど何も知らない。でも私は、世の中でいったい何が起こっているのか単純に見てきたい。自分の見方で世の中を見てみたい。という思いの方が強く、そのときは危険な所であるとかいうことはまったく考えていなかった。その後国連の女性職員が射殺されるという事件が起き、事務所のほうからは 「もし、派遣を見送りたいならそれでもいいんですよ。」 と再三言われた。その度に自分の身の危険を多少は考えたが、やはりとにかく「見てみたい。」という考えに変わりは無く今回の仕事を引き受けることとなった。今後6ヶ月やることは決まった、今年はチャレンジの年なのだ、と、ただただ興奮したのを覚えている。
   もともとMSFで活動したいと考えたのは、子供のころから戦争が引き起こすことに興味を持っていたからだ。小学生のころ学校で原爆に関するビデオを見たのがきっかけだ。人はなぜ殺し合うのか、戦争に正義はあるのか。戦争がもたらすものは・・・。素直な疑問だった。助産師になったのも、とにかく人の命に関わる仕事がしたいと思ったから。多分これは看護師である母の影響が大きいと思う。4年間助産師として働いたが、その間、忙しい病棟の仕事に毎日きりきりしていて、常に何かに終われているという状況だった。一度仕事を辞めて、自分を見つめなおしたいという思いから、カナダに1年近く語学留学をすることにした。特に英語が話せるようになりたいと意気込んでもいなかったが、いろいろな国からやってきた留学生達と話をするうちに、自然に 「国が違っても、言葉が違っても人の考えることって大差ないんだなあ。」 と思うようになった。自分の世界がいきなりパッと広がったような、それは大きな感動であった。
   その年の9月11日、ワールドトレードセンターを襲ったあの同時多発テロを目にしたのだ。クラスでこのニュースを知り、私達はテレビにくぎ付けになった。信じがたい光景と、悲しみに打ちひしがれる人々。 「戦争になる、この先どうなるんだろう。」 とても恐ろしいことが起こってしまったと大変な恐怖を感じた。実はこの頃私は、しばらく医療に携わりたくないと思っていた。毎日続いた緊張に疲れていたし、命を預かる責任の重さに押し潰されかけたからだ。だが、この一連の戦争が 「世の中には他にもたくさん戦争に苦しんでいる人達がいる。」 という事実を思い起こさせてくれることになる。日本だったら考えられないような病気で死んでいく人がいる。内戦のために家を追われ、医療を受けられない人達がいる。 「私もこういう人達の役に立てる。」 帰国後すぐに国境なき医師団事務所に連絡をとり、面接を受けそのまま派遣待ちの状態となった。事務所の貫戸戸朋子さん(国境なき医師団初めての日本人医師)とお話ができたのはとてもうれしかった。 「あなたは国境なき医師団でどういう活動がしたいですか?」 「水の中に一滴ずつ、絵の具をたらしていくような活動がしたい。」 すぐに何かが変わるなんてありえないけど、きっといつか変わっていくんじゃないかと思っていたからだ。それはいまも変わらない。
   実は登録したらすぐに仕事が来るものとばかり思っていた。ところが、初回派遣者にははなかなか仕事がこず、何度か出たことがある経験者ばかりが次々と仕事をしてきているのを見て、とてももどかしい思いをした。確かに私は英語は日常会話程度しか話せなかったし、仕事の経験だって4年なんて長いほうではない。だからといって、経験者だって初めての時はあったじゃないか、って。
   派遣が決まってからはとにかく私にとって人生の転機といえる出来事があったその土地へ行けるということは何か縁があったんだなあと思っている。出発まで約1ヶ月半、とにかく医療用語と政治的背景も頭にいれておかなければと、夜勤の傍ら勉強の日々だった。自分の生きたかった人生を生き始めてるって実感した、やっと自分のやりたかったことができるってうれしかった。そんなこんなであっという間に派遣されることになったが、それまでの間途中で何度か出発の日時が変わったので、もしかしたら派遣が中止になることもありえる、と思い本当に身近な人にしかアフガニスタン派遣のことを言わずにいた。MSFの仕事は危険なフィールドが多いということもあり、社会情勢により活動自体を縮小したり、中断したりせざるを得ない事がある。いろいろな状況に柔軟に対応して活動を続けているというのがMSFの潜在能力の高さだ。私も何度か出発日の変更はあったものの、最終的には予定通りに出発することになったのだった。

(2)パリでの打ち合わせ

   パリは寒い。大体なんで熱帯医学研究所で研修を受けたのに、極寒のアフガニスタンに行くことになったんだろう。私の任期は十二月から半年間と言うものだった。まさに真冬。アフガンでは気温はマイナスまで下がると言う。まさかあったか下着を買いこんで持っていくことになろうとは。
   「夏までいれば熱帯になるかも。」 なんて言った熱帯医学研究所の友達いたことを思いだして笑ったけど、右も左もわかないままに着いたフランスのオフィスで着くなりパリでの宿舎 「じゃあ、今からパスツール研究所でワクチン打ってきて。」 と地図を渡された時は、本当に泣きそうな気分だった。
   「そっか、ここからもうミッションは始まっているんだ、とにかく自分でなんとかしなくちゃだめってことね。」と、気を取りなおし、地図をぐるぐる回しながらあちこちで「パルドン」 を連発しなんとかたどりついた。フランスでこんな風に出歩くなんて考えてもいなかったので、挨拶程度のフランス語さえわからなかった。英語だってそうとう怪しいのに、無理やり英語と笑顔で。返ってくるフランス語に顔が引きつりそうだったけど、なんとか着くものだ。 「おお、これが有名なパスツール研究所かあ。」と関心しきり。予約してあったドクターのところに行った。
   パリで驚いたのは、本当にいろんな国の人が来ていると言うこと。見た目では何人かわからない。アフリカ系のフランス人もものすごく多いし、スカーフをかぶった人もたくさん見かけたし、自分のようなアジア系の人もたくさんいた。病院にはたくさんの人が待っていて、いろんな言葉が飛び交っていた。日本以外の国の人って、自分がフランス語話せなくても、結構自国語でがんがんン話しているから、その雰囲気に受付の人も推されている感じだった。実はこういう押しの強さが大事なのかなあと思ったりして。
   日本で終わらせることができなかったワクチンの接種をして、足早にオフィスに戻った。ワクチンのお金を払うときに 「OOウロ。」といわれて、「何ユーロ払って。」といわれていると言うことにしばらく気がつかなかった。
   「ウロってなあに?」と聞いて、これこれとお札を見せられて「あー」と言う感じだった。フランス語の発音は難しい。なるほど。
   オフィスに帰ると早速、簡単に仕事の打ち合わせをし、活動内容について説明を受ける。これがおかしいくらい頭に入らないんですね。もうちんぷんかんぷんというか。最後には担当者も「とにかく、行けばわかるから。」 なんて、なんだか相当投げやり。本当にイメージ湧かなかった。私がパリでブリーフィングを受けながら感じたことは、オフィスでは現場がわかりにくいということだ。日本で聞いていた活動内容とはかなり違ってびっくり。これ実は1年も半年も前の内容だったのだ。私が行く前は現地にエクスパットドクターも心理療法士もいると聞いていたのに、活動は縮小されてほとんどの仕事は現地スタッフのみで運営されていると言うことだった。実際現場が現地スタッフのみで回っているなら、私はいてもいなくてもいいのに行くのか。パスポート 自分に何が期待されているのか、なかなかわからなかった。ほんとにわからないことだらけ。MSFは世界に5ヶ所あるオペレーションデスクが、各フィールドと連絡を取り合い活動計画を立てたり、現場に指示を出す。私はフランスの持つプロジェクトへの参加だったので、パリで打ち合わせをしてから現場に飛ぶと言う形だった。他のMSFセクションも同様。フランスでアフガニスタンのビザを取り、飛行機のチケットと必須医薬品等のガイドブックを受け取り、さらにはTシャツ、コンドームをボンと渡されて 「じゃあ、行ってらっしゃい!have a good mission!」って感じだった。とにかく行ってみるしかない。よくわからないけどそういうものなんだろう、ファーストミッションなんてものは。英語も怪しいし、自分の思っている事をどれだけ主張していいのか、どれだけちゃんと伝わるのか、その辺もよくわからないけど、ここまできたらあたって砕けろだわ。
   その夜は日本から同じ飛行機でやってきた二人の日本人ボランティアと一緒にご飯を食べた。2人はスーダンに派遣される。彼女らの友人で将来国連で働きたいと思っている日本人の男性や、フランスにワーキングホリデーで来ている女性など、刺激的な人々に会うことができた。自分とはずいぶん違う世界の人がいるもんだなー、と感心。私の世界は、ほんとに狭かったってしみじみ思った。みんな英語ぺらぺらで、私これからほんとに行っても大丈夫でしょうか、と言うような感じだった。
   「英語とフランス語ができたら、国連では強いんだよな。」 ということで、彼はフランスに飛んで来たのだそうだ。なんでも、自分の目標に向かってがんばれる人ってすごいと思う。
   明日は朝早く、新しいミッション責任者とともにアフガニスタンへ向かう。一人じゃなくてよかった。彼は今回6回目のミッションだそうだ。MSFで活動をしている人達はもう10年選手なんてざらで、そういう現場に詳しい人たちが新しく入ってくる人達にMSFとして働くということを教えていっている。私は今回とにかくなんでもはじめてなんだから、なんでも聞こうと決めた。
   「聞くは一時の恥じ、聞かぬは一生の恥じ」というではないか。

(3)アゼルバイジャン

   朝、シャルル・ド・ゴール空港。新しいミッション責任者(ロジスティック専門、以下ボス)がホテルまで迎えに来てくれた。オフィスから現場に持っていくよう託された荷物がいくつかあったおかげで、タクシーで空港まで行けることになった。ボスはオランダ人でフランス語ぺらぺらのやさしそうな好青年って感じ。若そうに見えるけれど、私よりはお兄さんらしい。英語もぺらぺらやし、フランス語もなんてすごいなあ。MSFで働いている人の中にはは結構こういうすごい人がいる。自分は英語でも汲々としているのに、この差は何って感じだな。
   アフガニスタンへの道はパリからだと二つ。アゼルバイジャンを経由するか、ドバイを経由するか。とにかく直行便はない。私がアフガンにいる間に、アリアナ航空がカブールパリ間の運行をはじめたが、MSFはアリアナ航空を使わないということだった。私達はアゼルバイジャンを経由してアフガニスタンに入る事になった。アゼルバイジャンってどこ??なんだかすごい、知らない所だらけだわ。アフガニスタンに行くって思ってはいたけど、実際パリに行かないと行けないって事も、アゼルバイジャンを経由していくって事もぜんぜん知らなかった。パリからアゼルバイジャンまでおおよそ4時間くらい。首府バクーはカスピ海に面した小さな街だ。私達が着いたのは夜9時くらいだったから、外は暗くて何も見えなかった。飛行機から見える風景は小さな家の光が同じ色で、不思議な統一感をかもし出していた。
   アゼルバイジャンに夜滞在し、翌日7時の便でアフガニスタンに発つそうだ。数時間しかないけど、この日はホテルに泊まることにし、ビザを取って外に出る。空気は寒いけど湿っていた。カスピ海のおかげでパリほどの凍りつく寒さは感じなかった。日本の冬みたいに、なんとなくあったかい感じ。ボスがタクシーの運転手と交渉をしている。彼は慣れているし、ここはお任せしよう。アゼルバイジャン、経由地でなければここに来ることはなかっただろうな。タクシーに乗り込み、ホテルに向かう。この国は以前ソビエト連邦に属していたから、建物の多くが典型的なソビエト建築だそうで、巨大でそっけないビルがそこここに連なっている。私たちが泊まったのは「ホテル アゼルバイジャン」そのままやね。 16階くらいあるホテルの各階ごとにフロントがあり、それぞれ違う会社が契約している。タクシーの運転手と、それぞれのフロアは契約を結んでおり、客を連れて行くとタクシー会社も報酬を受け取れるという具合だ。私達の泊まったフロアは11階。部屋に通されて驚いた。すごくかび臭いの。なんていうの、これ、使われていないのか手入れされていないのか・・・・。シャワーは出るけどぬるい、寒い!贅沢は言わないけど、これはちょっと簡便って感じだった。ゴキブリをトイレで発見したときは、思わず叫びそうだった。
   明日の朝は早いというのに、ボスは「せっかくだからレストランに食べに行こう。」 という。もう9時半過ぎている。こんな時間でもやっているところあるのかしら。彼もアゼルバイジャンは初めてと言うことだったので、適当に歩いてお店探そうという話になった。もともと、MSFに参加するような人は、旅なれていて、全然来たことがない土地でも普通に旅ができてしまう人ばかりだから不思議。まあ、そう言う人が集まるようにできているんだろう。MSFに参加する人のほとんどは、 「旅行が好きだから。」とか「外国で働いて見たかったから。」 とか、結構簡単な理由で参加している人が多い。私も自分の興味が大きかったし、多分こう言う仕事って、表立っては確かに人の役に立ちたい、純粋に医療に恵まれない人のために働きたい。って思ってはいるんだろうけど、力入りまくっている人にはあまりお目にかからない。みんな知らない土地に行ったら自分は無力だと、良くわかっているのだ。自分が行ったところで、急に事態が好展開するなんてありえないとわかってる。それに、力抜いてやらないと続けられないのだ。
   「で、たまきはなんでMSFに参加しようと思ったの?」 ちょっと粋な感じのロシア料理レストランにはいり、2階にあるテーブルに通されて、やれやれと席についたら、ボスが早速聞いてきた。
   「世の中で何が起きているのか、自分の目で見てみたかったから。」 私はこう答えた。じゃあ、彼はなんでMSFに参加することにしたのだろう。 「僕は家具職人なんだよね。テーブル作ったり、たんす作ったりね。」 へえ、じゃあ余計に全然世界が違う気がするよ。 「うん、家具職人って世界が狭いよね。黙々と作るだけだし、誰にも会わないこともあるんだよ。世界の情況に興味があったのは僕も同じだな。僕はね、人の生活に興味があるんだ。アフリカとヨーロッパじゃ生活が全然違うよ。そういう世界の違いね、そう言うのが面白いんだよ。家具職人という仕事にも誇りを持っているけど、プロジェクトで、例えばなんにもないアフリカのフィールドに行くとするだろ。全然病院も機能していないところから初めて、ナショナルスタッフだけで運営できるようになったとき、ものすごい充実感があるんだよ。そう言う喜びが、癖になっちゃったんだよね。」 そうか。彼は今回がかれこれ6回目のミッションなのだ。いわばベテラン。彼は政治にもかなり詳しかったが、それはミッションをこなす中で、いろいろなNGOや政府側とのやり取りで学んできたものらしかった。普通の家具職人でこう言う生活している人って、日本にはいないでしょう。彼は本当に物知りだったので、はじめジャーナリストか何かと思っていた。MSFには医療者のほかにいろいろな職種の人がいるので、そう言う人達と話をするのも勉強になって楽しい。国際関係学を学んでいる人は、コーディネーションチームの一員として働くことが多い。私達のような実際に現場で働く者と、プロジェクトを組み立てる人とが組むのだ。私は本当に社会情勢に疎いから、その手の話が話題にのぼると 「ねえ、それってどう言う意味?」聞かないとわからない情況だった。ちなみにボスはすごく好青年なんだけど、時々やさしすぎてはっきりしないところもあった。まじめな人だと思っていたら、セックス・アンド・ザ・シティというアメリカの連ドラにはまり(DVD)夜中の12時過ぎまでみたりしていた。エッチな場面で彼の高笑いが私の部屋まで聞こえてきて、ちょっと意外だった。
   アゼルバイジャンの料理は表現しにくいけど、魚介類が多いのは良かった。アフガニスタンでは魚は食べられないんだろうな。私はトマト系のスープを頼んだ。ボスはかなり料理を頼んでいて、結構な量を平らげていた。長時間の移動と緊張感でとてもたくさん食べる気にはなれない。ワインも飲んだら一気につぶれてしまいそうなのでパス。
   回りを見ると、化粧の濃いおば様たちがスーツ来たおじ様達とワインと食事を楽しんでいる。毛皮がものすごく豪華だな。ジャンバーにジーンズ、ごっつい靴の私達は明らかに場違いだったけど、下の階には若い男の子達もいた。毛皮の女性が一緒にいる男の人たちの雰囲気たるや、なんだか映画で見たことがあるマフィアみたい。 「ねえ、回りの人がみんなマフィアに見えるよ。」「アゼルバイジャンって石油があるだろ。悪いやつらもたくさんいると思うよ。」 彼はしれっと答えた。そうか、でも確かタクシーの運転手さえ、かなり怪しげにみえたもんなあ。
   そうこうしているうちに11時を過ぎ、じゃあ、ぼちぼちとレストランを後にした。明日の朝5時に迎えが来るんだった。気持ちはどきどきして寝られそうにない。でも少しでも休まなくては。シャワーを浴びて、ベランダに出るとやはり海の湿気を帯びた懐かしい風が吹いていた。明日は早い。日本から持ってきたスカーフを出しておく。明日からはスカーフの日々なのだ。疲れているはずなのに、なぜか緊張して眠れない。頭だけががんがんに冴えてしまっている。あー、ほんとにどきどきする。明日はアフガニスタンに入る。気持ちを引き締めていかないといけない。あまりニヤついていてはいけないんだわ。迷惑かけるかも知れないけど、自分のやることに責任を持って、同じ過ちを繰り返さないようにすればいいのだ。
   よし、とベットに滑り込み4時間ほどの眠りにつく。季節はずれの蚊にあちこち刺されながらうとうとと眠りに落ちていった。

(4)アフガニスタン入り

   5時、ホテルを出て空港へ。7時の飛行機を待つ人間で空港は意外とにぎやかだった。昨日は緊張していて気がつかなかったけど、とにかくジャーナリストが多い。ほとんどの人が大きなカメラを持っていて、それ意外では私達のようなNGOの人間が大半だ。アフガニスタンは大会議「ロヤジルガ」を控えて、セキュリティーもきついようだ。ボスはセキュリティーゲートをとおるたびにごつい靴を脱がないといけなくてうんざりしているようだった。フライトは予定どおり、約3時間の飛行時間となる。VISA
   アフガニスタンへ向かう飛行機はソビエト時代からのものだそうだけど、これがもうびっくりするくらいぼろい!そして、席の指定がない飛行機なんて初めてだった。ちなみにシートベルトが壊れて使えない席もあった。大丈夫かいな。振動がもろに伝わってくる。私は信心深いほうじゃないけど、さすがにこのときは祈ってしまいました。中には十字をきっている人もいて「おいおい、これ大丈夫なの?」と不安をあおるには十分過ぎるくらいだった。ってまず無事につけなかったら意味がないじゃないか。ねえ。
   飛行機の中には、ごつい男達が前の座席を倒して足を投げ出して熟睡中。どうも雰囲気からはNGO関係者じゃない。カメラも持っていないところを見ると、ジャーナリストでもない。むきむきに盛り上がった腕の筋肉から軍隊関係なんじゃないかと思っていた。後で聞いたら、アフガンにはかなりの数、民間の警備会社から雇われた兵士がいるということだった。横柄な態度と行儀の悪さが気に入らない。繊細さのかけらも感じられないから、こう言う人は銃を持たされたら、躊躇なく人を撃てるんじゃないかなんて思ってしまった。
   アフガニスタンへ近づいて行く。眼下に、雪化粧した山脈が連なる。きれい。空が青い。山の茶色と雪の白が青い空に映える。風が強いのか、雪が風に吹かれて飛ばされている感じ。空気は乾いているようだ。足のずっと下の方で戦争があった。そして今も苦しんでいる人が大勢いる。なんとも言い表せない感じだった。おんなじ地球にある国で、他の国と陸で続いているんだよ。この不思議。
飛行機はゆっくりと下降をはじめる。砂漠のような地面が近づいてくる。地雷撤去のNGOスタッフが地雷探知機を使いながら、空港周辺で作業を行っている。無事に着陸、着陸したとたんバタンバタンと倒れる座席の背もたれに思わず苦笑。よかった無事に着いて。まだ飛行機は滑走路を移動しているのに、みないそいそと荷物を棚から下ろしている。ひとつ大きく深呼吸をして、どきどきしながら頭にスカーフをかぶる。ここから先は本当に未知の世界と思ってぎゅっと心を引き締める。アフガニスタンの人に、日本人の私はどういう風に映るんだろう。嫌われることもあるのだろうか。
   空港は警官であふれている。銃を持つ人が当たり前にうろうろしていて、明らかに日本とは違う。ここでもセキュリティチェックは厳しい。渡された入国審査表に必要事項を書き込む。アフガニスタン入り
   「仕事ってなんて書いたらいいの?」ボスに聞く。MSFとかかくわけ?「人道支援、援助職員とでも書けば良いよ。」 と言われて、そう記入する。ビザを見せて、これは意外とスムーズに終わった。それにしても入国する人のほとんどが、国連職員かメディアの人間かNGOの職員なんて、すごい。とにかくアフガニスタンだ。信じられない!空港からもきれいに山脈が見えて、本当にここがほんの2年前まで戦争のあった国なのかと思う。今だってセキュリティーは厳しくなっているって言われるけれど、MSFの現地スタッフに迎えに来てもらった時、みんなに話かけられて、あんな風に笑顔を向けられたら普通に普通の外国のような気がしてしまった。空港には荷物運びでお金を稼いでいる人がいて、私の荷物を持って大きなカートに乗せる。アフガニスタン入り
「いいの?」とボスに聞いたら「たくさん荷物あるし、頼もう。そんなに高くないだろうから。」 と。確かにパリからいろいろなお届けものを預かってきたので、持ちきれない重さだった。私の荷物は、必要最小限に押さえたけど、バックパックは20キロであまりの重さにふらつきっぱなしだった。情けない話、もっと鍛えてこないといけなかったんだわ。外国人に群がってくるアフガン人を見ていると、インドネシアに行ったときを思い出す。一人じゃなくて本当に良かったわ。これ心細すぎる。軍服着た男の人ばかり、見た目怖すぎる。
   緊張しまくっていた私は、飛行機の中に頼まれて持ってきた荷物を置き忘れると言う失敗をし、「あー、もう私はほんとにアホだ。」 と落ち込んだけど、空港の職員の人がなんとか見つけてきてくれた。ひゅう、最初からこれだもの、先が思いやられるぞ。ボスにも、30分以上も待ちぼうけを食らわせてしまった。
   ゲートを出ると、髭の濃い顔の男性が一人と、白人の女性が私達を待っていた。MSFでのアフガニスタンの生活が、ここからスタートするのだ。

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