熱研生物資源室よりトピックスをお届けします

素朴な疑問 : その五

===  教科書に記載されている内容は正しいことばかりでない?  ===

 

理論だけが先行していて,まだ実験ができていないために立証できていない理論も物理学の分野にはもちろんまだまだたくさんありますが,物理現象や物理の法則の分野では,理論の真偽を確認するための実験も追試も一般的には可能ですから,これまでに修正が繰り返されて今日の教科書ができあがっているのでしょう.しかし,医学や生物学の分野では,過去に報告された内容が全部追試されているわけでもありませんし,ましてや,人体を使った実験はできないこともあって,どうしても過去の記載内容がそのまま復唱・踏襲・転載されていることが多いようです.つまり,この分野では,先人の教えはいつも正しいとは限らないことになります.

シャガス病について記載された,いわゆる教科書的なものを例に,お話ししましょう.

シャガス病の抗体と原虫血症に関して,急性期から慢性期にかけての経時的変化について,教科書に記載されている一般的な内容はつぎのとおりです.

「急性期を過ぎてのち,(約3040年後の)慢性期までの間に,不確定期(indeterminate phase)を経る感染者もあり,その間は,抗体価も下がるため,抗体検査も含めて,他の臨床学的検査からもシャガス病を診断するのがむずかしく,一方,慢性期では,抗体価は高く,原虫血症が見られない.」

上の記載が普遍的ですと,不確定期に入っているシャガス病患者は,健康人と変わらないわけですから,そもそも,その被験者はT. cruzi原虫の感染者でなく,シャガス病と無関係な人をシャガス病の不確定期にしている可能性もあります.

 

これまでのシャガス病流行地での当該国の調査に同行した1,500名におよぶ調査では,幼少期のうちにT. cruzi原虫に感染してしまう,と仮定しますと,抗体陽性はどの年齢層もほぼ同率でした.このことから,抗体価が下がるという不確定期が存在しないのかもしれません.つぎに,そのときの抗体陽性者のすべての血液培養おこないましたら,どの年齢層の血液培養からもほぼ同率に原虫を分離することができました.つまり,高齢者から特に原虫を分離しにくいのではなく,顕微鏡を用いて,直接的な検査はしませんでしたが,年齢から判断してすでに慢性期と予想される老人たちにも原虫血症がみられたことになります.実際に,当室でも,中米のシャガス病流行地のフィールドで,中年女性の指先のプリックから得た数滴の血液中にトリパノソーマ原虫を顕微鏡下に観察し,その後原虫を分離できましたし,国内でも,80歳を過ぎた抗体陽性者からT. cruzi原虫を分離した例があります.

 

このように,教科書に記載されている内容と,実際の検査や観察結果との間には,齟齬があるのは,シャガス病の場合,感染から慢性期までが長い年月に及ぶため,ある個人に特定した長期間の病歴やその間のデータの蓄積が少なく,また,ヒトには実験的感染もおこなうことができないために,断片的に寄せ集められたデータからの推測がもとになっている,と推測します.

 

高齢者からT. cruzi原虫を分離されたご経験のある方は,当室へご連絡ください.

protozoatm.nagasaki-u.ac.jp を@にかえてお送りください.