国境なき医師団

国境なき医師団の結核プロジェクトでPNG (Papua New Guinea)に滞在中の松井です

PNGは結核高蔓延国の一つで、罹患率は2014年のデータで361/10万人、首都のNCD (National Capital District)に限ると1200/10万人を超えるとされています(日本は16.1/10万人!)。閉ざされた空間に複数の家族が居住するという生活スタイル、人々の結核に対する理解不足、結核診療に関わる医療スタッフや施設の不足などが高罹患率の原因であると考えられ、MSFはNCDにてNDOH (National Department of Health)をサポートする形で結核の診療、教育などに関わっています。

私の仕事は、最も結核患者の集まる病院の一つであるGerehu Hospitalにおける結核診療です。月に500人を超える患者を2人のHEO(医師ではないが診療行為を行う職種)と共に診療しながら、スタッフの教育、診療体制の向上、他部署との連携の構築などを行っています。肺結核はもちろん、多数の肺外結核や耐性結核、HIV合併結核、小児結核などのマネジメントを最前線で行う ”TB specialist” として、日々勉強しながら最善の診療を提供できるよう努めています。

結核の診断は具体的に、①臨床経過と症状、身体所見、②塗抹所見とGeneXpert、③レントゲンで行っています。おそらくMSFの他のミッションと比較し検査へのアクセスは比較的恵まれておりますが、もちろん日本に比べると非常に限られた医療資源であり、今まで培った身体診察とレントゲンの読影技術を武器にしてなんとか戦っています。

公用語は英語、ピジン語ですが、学校を出ていない人はピジン語しか喋ることができず、たまに通訳を必要とします。他のスタッフや他科のドクターとのコミュニケーションには英語を使用していますが、英語力もまだまだ改善が必要であると日々痛感しています。

非常に苦労の多いミッションですが、国際協力の楽しさや難しさを肌で感じる日々、様々な医療スタッフや非医療スタッフとの交流など日本では決してできない経験であり、自分を大きく成長させてくれる舞台であると実感しています。

松井昂介

エチオピア・南スーダン難民診療に従事して (高橋健介) 日経メディカルOnline2015/5/22掲載

「元気になったらまた戦いたい」

「ドクター! またプランピナット頂戴よ」
2週間前に退院したはずのパノム(20歳)が白い歯を見せて笑いながら、外来に姿を現した。プランピナットとは栄養失調の治療で用いる栄養剤である。「パノム! どうした? 難民キャンプで食べ物ももらっているだろう?」身長180cmの長身ゆえに、あらわになったあばら骨や関節だけがやけに目立つ細い手足、肉のこけた頬骨が際立って見える。それでも、彼と初めて会った2ヶ月前に比べると幾分肉付きがよくなり、何より白い歯をむき出しにして笑う顔が退院後も順調に回復していることを物語っていた。
2ヶ月前、雨季の終わりにエチオピア-南スーダン国境近くで民族軍に従事していた彼が我々の病院を受診したときには体重はわずかに45kgしかなかった。1ヶ月前から発熱・咳・呼吸困難・下痢・体重減少があり、少し動いただけで息切れがした。診察所見で左胸水があり、穿刺で2Lの排液を抜くと、呼吸はだいぶ楽になった。胸水を染色して顕微鏡で覗くと、赤い糸くずのような結核菌が見えた。HIV抗原抗体検査は陽性。HIV/AIDS ステージⅣ、結核性胸膜炎、HIV関連下痢症、重症急性栄養失調の診断だった。
すぐさまカウンセリングを行った。結核にしてもHIVにしてもいかに治療を継続できるかがその後の死亡率に大きく作用するため、治療を始める前のカウンセリングは大きな意味を持つ。HIVの感染経路、合併症、無治療の場合や治療を中断した場合の経過、HIVの治療は無料で受けられるが薬は一生のみ続けなければならないことなど、一つ一つ丁寧に説明した。受け入れは意外にスムーズだった。
「ドクターは胸の水を抜いて苦しいのを治してくれた。ドクターの言うこと信じる」
通訳を通じて語られる言葉は前向きだった。
「今後の行き先について何か考えている?」
「元気になったら、また軍に戻って戦う」
「・・・」
彼らが民族の誇りのため、愛する家族のために戦っていることは承知している。我々は政治的中立を保ち、兵士も民間人も等しく治療を行わなければいけない。しかし、このときだけは軍に戻ることを強くとがめた。軍隊に戻ったらどこの戦地に行くかもわからないし、薬を続けられる保障はどこにもない。結核が再発すれば、周囲に感染を広げてしまう。
「兵士に戻るなら薬は始められない。元気になるまで難民キャンプで生活しながら、他に生きていく術を見つけてはどうか。」
彼には親も兄弟もいない、キャンプに行っても知り合いは誰もいない。一緒に来た軍の仲間はもう別の戦場へ行ってしまった。そんな状況もわかっていたが、まだ20歳の彼に命を粗末にしてほしくなかった。
「ドクターは病気を見つけて治してくれた。ドクターの言うとおりにする」
結核の治療が開始された。国連難民高等弁務官(UNHCR)に掛け合い、彼を難民として認めてもらった。難民キャンプでHIVと結核の治療薬をもらえる手はずも整えた。
治療開始から1ヶ月半が経ったころ、症状は軽快し、退院となった。
「ドクター、ありがとう」
そう言って治療を続けることを約束してくれた彼は、その代わりに2週間毎にプランピナットをねだりに通ってくるようになった。4ヶ月のミッションを終え帰国の途につく数日前、彼は、キャンプで友達ができたことを教えてくれた。ようやく居場所を見つけたようだ。彼が今でも治療を続けていること、彼のようなケースがこれ以上増えないことを願うばかりである。

戦禍を逃れてエチオピアへ

長く内戦が続いていたスーダンから2011年に独立を果たした南スーダンでは、独立後も国内外の情勢は安定せず、2014年の平和基金会(FFP)の報告で、世界で最も脆弱な国とされている。クーデター未遂事件をきっかけに再度国内民族紛争が勃発したのは2013年12月のことで、今も収束する気配を見せず、21世紀最大の民族紛争とまで言われている。南スーダンの主要民族間で対立がおこり、一方の民族の兵士が他民族の市民を発見するや否や無差別に殺傷したり、病院に武装した兵士が乱入し、患者を無差別に殺傷したりと血なまぐさい話を南スーダンで働いていたスタッフから聞いた。
南スーダンの難民は国内外を含め190万人に及ぶといわれ、エチオピアには2014年11月の時点で20万人を越える難民が越境し、UNHCRの保護下にあった。多くの難民が数百キロの道のりを数週間かけて歩き、国境にたどり着く頃には多くが栄養失調やマラリアなどの疾病に罹患していた。[1]

国境近くの野戦病院

2014年11月から2015年3月の4ヶ月間、私が国境なき医師団のミッションで派遣された病院は南スーダン国境に接するエチオピアの西のはずれ、ガンベラ州のItangという村にあった。3つの主だった難民キャンプのちょうど中間点にあたり、患者は難民・地元住民がおよそ半々。病院内では様々な民族言語が飛び交っていたが、優秀な通訳がいたおかげで英語で診療することができた。
病棟はICU12床、隔離病棟6床、一般病棟15床、栄養失調治療病棟28床からなる63床で1日平均120人の外来患者、毎日平均5-10名の入退院がある。ICUといっても、一般病棟との違いは酸素濃縮機があることと、バイタルチェックが頻回であることだけで、ベンチレーターもレントゲンも超音波もなかった。血液検査はヘモグロビンと血糖、マラリアを含むいくつかの簡易キットがあるのみで、診断は病歴や身体所見に頼ることが多かった。出産施設や本格的な手術施設はないため、外科・産科緊急疾患は救急車で1時間程の州都ガンベラの病院に搬送する。入院疾患の8割は小児、半数が合併症のある栄養失調で、下痢症、マラリアがそれぞれ3割ほどをを占める。マラリアはこの地域では雨季の終わりということもあって特に多く、外来を訪れる発熱患者の半数はマラリア抗原検査が陽性だった。
医師はMSFの専門家が2名、それぞれ3-6ヶ月のミッション期間で派遣されており、医師の指導下にHealth officerという地元スタッフが毎日4人ずつ、病棟管理と外来診療を行っていた。彼らHealth Officerの仕事は医師とほぼ変わらないが、医学校を卒業したばかりのスタッフもおり、指導とバックアップが必要だった。日々の診療に加えて一日おきに当直がある生活は正直ハードだったが、周りのスタッフや患者さんや家族の笑顔に支えられ、また日本ではお目にかかれない疾患も多く経験することができ、充実していた。

忘れられた熱帯病

この地域特有の病気としては、内臓リューシュマニア(Kala-Azar)の症例を何例か経験した。この病気は、サシチョウバエ(sand fly)という小さな昆虫を媒介とする原虫感染症で、毎年およそ50万人が感染し5万人が亡くなり、その9割がインド、東アフリカ、ブラジルに集中している。感染しても症状が現れない(無症候性感染)ことも多いが、症状が出現して放置すると重症化し、死に至る。治療にはアンチモン酸塩、パロモマイシン、アムホテリシンBといった薬が使われるが、これらの薬は高価な上に途上国では手に入りにくく、現場でもしばしば薬の不足で治療ができないことがあった。[2]
WHOはこうした、熱帯地域に特有で多大な被害をもたらしているにも関わらず対策が進んでいない病気をNeglected Tropical Disease(NTD)と定義し、診断・治療・予防に力を入れているが、薬やワクチンの開発を担っている先進国にとっての被害が少ないため、文字通り顧みられていないのが現状である。[3]

HIV/AIDSと結核

HIV/AIDSと結核の問題もサハラ以南のアフリカでは特に大きな問題である。
エチオピアにおけるHIVの有病率は1.9%(2013年WHO報告)と周辺国に比較すると低いが、ガンベラ州においては4-6%と群を抜いて高い。欧米や日本に比べると、その有病率の高さは言わずもがなである。民族特有の一夫多妻の文化背景や、体に装飾を施すときの針の共有、コンドームを使わない性交、HIVについての誤った知識といまだに根付く偏見、有病率の高い南スーダンからの難民の流入など、多くの背景がある[4]。
結核の発生率も高く、2013年にはエチオピア全土で13万人が発症し、そのうち2割が15歳以下の小児だった。HIV感染者は高率に結核を合併しており、地域内で結核感染を広げる温床となっている。エチオピアでは治療を中断する症例が多く、中断したケースでは12%という高い確率で多剤耐性結核が検出されており、世界の中でも多剤耐性結核の危険地域ワースト5に数えられている[4]。
冒頭に紹介したパノムのケースはほんの一例で、南スーダンでHIVや結核の治療を開始されたものの戦禍のために治療を中断せざるを得なくなったケースも多かった。

対岸の火事ではない

エボラウイルス病やデング熱など、昨今は日本国内でも熱帯病の話題がニュースになることが多くなった。交通・通信が発達し、ヒトもモノも国境を越える中、熱帯感染症もまた対岸の火事ではなくなっている。私が行ったエチオピアのミッションでも、顧みられない熱帯病、HIV/AIDS、多剤耐性結核など、今後世界的規模での対応が必要になるであろう問題が山積だった。現地に行く前には実感することのなかった問題を目の当たりにし、世界中には同じように「顧みられていない」問題がたくさんあることに改めて気づかされた。
この文章を読んだ方が、少しでもこうした世界の問題に興味を持ち、ささやかでも行動を起こすモチベーションを持ってくれたら、何より嬉しいことである。

最後に

今回のミッションでは多くの人の助けがあって、貴重な経験をさせていただくことができました。様々な国から集まり苦楽を共にしたMSFの専門家・現地スタッフ、海の向こうから支えてくれた日本のスタッフ、派遣が決まってできた穴を補ってくれた大学病院の同僚、心配が絶えなかったであろう家族や友人、そして多くの支援者の皆さんに支えられて活動ができたこと、深く感謝しています。この場を借りてお礼申し上げます

<参考文献>
[1] UNHCR East and Horn of Africa http://www.unhcr.org/pages/49e45a846.html, accessed on 30 Apr 2015
[2] Manson’s Tropical Diseases 23th Edition. Pp631-51
[3] WHO Neglected Tropical Disease http://www.who.int/neglected_diseases/diseases/en/ , accessed on 30 Apr 2015
[4] 2015 National AIDS Resource Center. All rights reserved http://www.etharc.org/, accessed on 30 Apr 2015


共に働いた現地スタッフと

タイ 2007年10月~2008年9月 (島川祐輔)

途上国の医療現場で医師として働くということ ~モン族難民キャンプでの経験から~

モン族難民キャンプ

皆さんHmong(モン)族という人々をご存知だろうか?もともと中国にいた民族だが漢民族に圧迫されて南下、約200年前に現在のベトナム・ラオス近辺の山岳部に定住した。第一次インドシナ戦争では宗主国フランスの手先として利用され、フランスからの独立を目指すベトナムと戦う。続くベトナム戦争では、今度は米国CIAの下、ラオス・ベトナム共産党軍との戦闘の前線に立たされ果敢に戦った。しかし1975年に共産党軍がラオスを平定すると、米軍は撤退し残されたモン族は共産党軍からの迫害にあうことになる。そして30年以上たつ現在もラオスのジャングルでは共産党軍による掃討作戦が続いているとのことで、モン族の多くが命の安全を求めてタイに逃れてくる。

私はタイ北部・ペチャブン県の山の中にある約8000人のモン族難民キャンプで2007年10月より1年間、国境なき医師団(MSF)の医師として働いた。キャンプで活動するMSFチーム内には外国人スタッフの助産師、看護師、心理士、Logisticianがいるが、医師は私一人で、キャンプ内の外来を通訳1人と4人のMedics(難民の中で簡単な教育を受け診断・処方を行える医療スタッフ)で切り盛りした。入院が必要な患者は車で50分の地方病院に送るが、タイの医療レベルはそれなりに高く、日本の僻地診療所に勤務している感覚だった。熱帯地域ならではの結核、腸チフス、寄生虫疾患もみられたが、最も多いのは感冒、水溶性下痢などだ。

難民スタッフたちと。どれが私でしょう??
外来受診者の4割は5歳未満です
一見平和だった日々のキャンプ

実は、このキャンプはタイ政府には難民キャンプとして認知されていない。なぜなら、タイ政府はラオスとの経済的友好を優先したいため、ラオス国内の事情には目をつむり、彼らを難民とは認識せず経済的理由で流入した不法移民だと捉えているからだ。キャンプは周囲に鉄条網が張り巡らされ、銃を持ったタイ軍の監視に常にさらされているが、私が赴任した当初は、それでも人々は一見穏やかな日々を過ごしているようだった。ところが2007年にタイ政府が2008年度中に全員をラオスに送り返すと発表し、実際に送還が始まってから状況は一変する。

2008年2月、12人がラオスに送還された。政府は彼らの帰国はあくまで「自主的」だと発表したが、うち一人の女性は軍の車両に無理やり押し込まれ、更に5人の子供をキャンプ内に残す形での送還で、明らかに「強制的」だった。

5月に入りキャンプ内のリーダーが軍に連行されたことをきっかけに、人々はUNHCR(国連難民高等弁務官)の介入及び公正な処遇を求めて連日のデモを開始する。5月23日、別のリーダーが逮捕されたことで軍と人々との緊張は最高潮に達する。キャンプ周囲のフェンスを突き破った人々が隣接する軍の敷地内になだれ込み、その数十分後にはキャンプ内より火の手があがり、キャンプの約2/3が全焼するという事件が起こる。


キャンプの2/3を燃やした火災

家を失った人々は鉄条網の外にテントを張ることを許されるが、デモは更にエスカレートし公道を占拠してのハンガーストライキに発展。最終的には、事態が好転しないことにしびれを切らした鉄条網の外で暮らす5000人が、約350km離れた首都バンコクに向けてのデモ行進を開始、しかしキャンプより数kmの地点で軍に行く手を阻まれ、デモは失敗に終わる。大部分はキャンプの鉄条網の中に戻っていったものの、この混乱の中で800人がラオスに送還された。


公道を占拠してハンガーストライキをする人々

MSFは直ちにこの事実をマスコミに公表し、政府に難民送還の透明性を求めたが、結果的に軍とMSFとの緊張が高まり「MSFは医療や水・食糧の配給だけしていればいい」とMSFの活動は制限されることになった。

これら一連の出来事の間、キャンプ内の緊迫感は常に高い状態で、先が見えない不安から心因的な不定愁訴を訴える患者が殺到した。ラオスに送り返されれば殺される。患者として訪れる人々の言葉を聞いて、私は医師として現状に対し何ができるのか、日々悩んだ。どうすれば彼らが送り返されずに済むのだろうか?しかし答えは出ない。それでも患者はやってくる。日々の診療をしっかり続けることで私自身も精一杯だった。

今後もMSFはこの問題に国際世論の目が向くよう主張していくとのことだ。もちろん物事には優先順序があり世界を見渡せばより規模の大きい問題が山ほどあるだろう。しかしだからと言って彼らのことを見捨てるわけにはいかない、なぜなら人の命が関わるからだ。日本でもモン族難民の事が取り上げられることを願っている。

途上国の医療現場で医師として働くということ

タイの医療レベルは決して低くはない。所得が低い人でも公的病院に簡単にアクセスできるよう、Universal coverageというシステムもある。そのような医療システムがそれなりに整っている国でなぜ日本の医師免許しか持っていない私が臨床医として患者に触れる事ができたのだろうか?

答えは簡単である。難民キャンプというタイの医師たちが働きたがらない特殊な場所であったからだ。

私は専門医でも何でもない。初期臨床研修と、総合内科・救急での一年強のトレーニング、それに3ヶ月の長崎大学熱帯医学研修課程と3週間のフィリピン・サンラザロ病院での熱帯医学研修を受けただけである。しかし、一年間の難民キャンプでの外来診療、及び4人のMedics達の指導に関して自分の力を出し切る事ができたし、キャンプという特殊な枠組みの中で最良の医療ケアを提供できたと思っている。

具体的に日々の勤務で要求されることをまとめると、

  1. キャンプ内の外来でマネージできる疾患に関しては、経口薬の処方・輸液の投与・創傷の管理・患者教育を含め出来る限り行う。
  2. キャンプ内で扱うことの出来ない外科処置が必要な急性腹症や、診断にどうしても画像検査を要するものなどに関しては、タイの公的病院に患者を送る。この過程で重要なのは病診連携であり、タイ語しか話せないタイの医師に代わり、モン語しか話せない患者の病歴・身体所見を英語の病歴要約にまとめて情報提供する。
  3. 特殊な疾患に関しては治療方針の決定も含め、患者とその家族、MSFのチーム、タイの専門医と、医学的適応・患者の意志・社会文化的なモン族コミュニティーの病気の捉え方・難民キャンプとそこで活動するMSFというNGOの枠組み、これらを総合的に踏まえてディスカッションすることで患者にとっての最適な医療ケアを探る。
  4. Medicsを含め、難民の中で簡単なトレーニングを受けて医療行為を行っている外来スタッフたちの教育・監督を行う。また必要に応じてGuidelineを新たに作成、あるいは内容を変更する。
  5. キャンプ内の健康問題、感染症の流行に他職種と連携しながら対応する。
  6. 医療以外の部分でも、MSFチームの活動方針の決定プロセスに参加する。

緊急援助の段階はすでに終わり中長期的な視野に立ってサポートを行っているこのキャンプでの1年間の経験を経て感じることは、Primary care physicianとしての問題解決能力が非常に重要だということだ。いわゆる“内科疾患”だけでなく、小児も高齢者も、目が見えない、耳が聞こえにくい、歯が痛い、などあらゆる主訴に対応しなくてはいけない。日本で経験したことのない疾患の診断もつけなくてはいけない。しばしば、良い臨床研修というのは魚を与えるのではなく魚の取り方を学ぶという言葉を聞くが、魚の取り方、つまり臨床的あるいは倫理的な問題の解決法・勉強法を身につけていた私にとって、様々な主訴で受診する患者(妊婦を除いて)をMedicsと共に対応することは臨床医としての醍醐味にあふれていた。

またこの1年間で3回感染症の大きな流行を経験したが(1-2月にロタウイルス、3-4月に水痘、6-7月に水溶性下痢と細菌性赤痢)、疫学的情報を集め、その上でLogisticianや看護師、Home visitorsたちと協力してコミュニティーに介入するというプロセスは、素人ながら強くやりがいを感じた。

私は途上国でのEvidence-based medicineの実践ということに強い興味があり、今後勉強していきたいと思っている。現在、先進国での臨床医学はEBMを抜きにして語る事ができない。そして途上国であっても、高度な医療技術を先進国から一方的に供与するのみではなく、お金のかからないEBMという“ものの考え方”を普及させる方が、コミュニティーレベルでも病院レベルでも医療ケア向上により効果的なのではないだろうか。タイでの一年間、患者一人一人のCase managementにEBMを活用することで、より一層その思いを強くした。

しかし同時に、タイの中のモン族難民キャンプという特殊なコミュニティーに生きる患者に欧米や日本で行われたStudyの結果をあてはめることには多くの問題もある。人種の違いはもちろん、Endemicな感染症も異なる。更には呪術師やHerbalistが活躍する社会では病気の概念や医療機関への受診動機も我々のそれとは異なる。

グローバルなEBMに興味がある一方そこに内在する矛盾を考えると、結局はPrimary care physicianとしてそのコミュニティーに骨をうずめるのが最もその地域に貢献できるのではないか、とも思う。たかが一年ではあったが、疫学的な“勘”が身についていたことを、後任Drとの申し送りをしている最中に気がついた。ある主訴で患者が受診した際に、どんな鑑別疾患をあげるべきで、中でもどの疾患がここではCommonなのかを理解しているということだ。例えば私が外来で診た急性の対麻痺は全例が低K性周期性四肢麻痺で、成人で4症例診断した。小児でも、2歳の男児が先行する下痢の後、歩けなくなったという主訴で受診、ポリオやギラン・バレー症候群を疑いタイの病院に送ったところ低K血症が見つかった。そして後日両親との会話で2人とも低K性周期性四肢麻痺の既往があることがわかった。この児が家族性の一例であった可能性がある。

疫学的情報や文化人類学的な視点をもってコミュニティーの健康に関われれば、質の高い医療が実践できるのではないか。しかし外国人医師である以上、コミュニティーを知るには時間がかかる。では実際に、私はモン族コミュニティーに骨をうずめて地域医療を実践したいのだろうか?答えはNoだ。私が花嫁でも見つければ話は別だが、残念ながら“縁”を感じなかった。では一体世界中のどこに“縁”があるのだろう?色々と考えてみたが、やはり自分は日本人で日本の地域に貢献したいな、と思うようにもなった。

 

今後長崎大学で研鑽を積むことになるが、長崎では熱帯医学の研究に力を入れると同時に離島の地域医療にも貢献していると聞く。途上国で医師として働いた経験から、途上国での臨床研究の重要性を痛感すると同時に、Primary care physicianとして地域に根付いた医療を実践することの素晴らしさにも気付いた。まだまだモラトリアム研修医なのだろうか、これからも将来の進路を模索する日々が続きそうだ。

2008年10月30日 島川祐輔

スリランカ 2003年1月~4月 (鈴木 基)

内戦が続くスリランカ北西部のタミル人難民キャンプでの診療活動。いっけん平穏なジャングルだが、いたるところに地雷が埋まっている。一時、停戦が守られていたが、再び対立が激化している。

仕事の帰りみち、難民の子供たちと。
移動診療所には次々と患者が集まってくる。
病院で診療の合間に通訳と談笑。

パレスチナ暫定自治政権ガザ自治区 2003年5月~9月 (鈴木 基)

毎日のように、難民キャンプを巡り、訪問診療を行なった。診療中に困るのは、近所で銃撃がはじまると、聴診できなくなることである。
一緒に仕事をしていた当時大学生のパレスチナ人通訳は、英語、フランス語、スペイン語に堪能な優秀な若者だった。将来は留学して言語学の研究をしたいと語っていたが、その後、イスラエル側に拘束されたという報道があり、現在まで音信不通である。

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